厳しい寒さの中を、二千里の果てから、別れて二十年にもなる故郷へ、わたしは帰った。
もう真冬の候であった。そのうえ故郷へ近づくにつれて、空模様は怪しくなり、冷たい風(fēng)がヒューヒュー音をたてて、船の中まで吹き込んできた。苫のすきまから外をうかがうと、鉛色の空の下、わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちに橫たわっていた。覚えず寂寥の感が胸にこみあげた。
ああ、これが二十年來(lái)、片時(shí)も忘れることのなかった故郷であろうか。
わたしの覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった。わたしの故郷は、もっとずっとよかった。その美しさを思い浮かべ、その長(zhǎng)所を言葉に表そうとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。やはりこんなふうだったかもしれないという気がしてくる。そこでわたしは、こう自分に言い聞かせた。もともと故郷はこんなふうなのだ──進(jìn)歩もないかわりに、わたしが感じるような寂寥もありはしない。そう感じるのは、自分の心境が変わっただけだ。なぜなら、今度の帰郷は決して楽しいものではないのだから。
今度は、故郷に別れを告げに來(lái)たのである。わたしたちが長(zhǎng)いこと一族で住んでいた古い家は、今はもう他人の持ち物になってしまった。明け渡しの期限は今年いっぱいである。どうしても舊暦の正月の前に、住み慣れた古い家に別れ、なじみ深い故郷をあとにして、わたしが今暮らしを立てている異郷の地へ引っ越さねばならない。
明くる日の朝早く、わたしはわが家の表門(mén)に立った。屋根には一面に枯れ草のやれ莖が、折からの風(fēng)になびいて、この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由を説き明かし顔である。一緒に住んでいた親戚たちは、もう引っ越してしまったあとらしく、ひっそり閑としている。自宅の庭先まで來(lái)てみると、母はもう迎えに出ていた。あとから八歳になる甥の宏児もとび出した。
母は機(jī)嫌よかったが、さすがにやるせない表情は隠しきれなかった。わたしを座らせ、休ませ、茶をついでくれなどして、すぐ引っ越しの話(huà)はもち出さない。宏児は、わたしとは初対面なので、離れた所に立って、じっとわたしの方を見(jiàn)つめていた。
だが、とうとう引っ越しの話(huà)になった。わたしは、あちらの家はもう借りてあること、家具も少しは買(mǎi)ったこと、あとは家にある道具類(lèi)をみんな売り払って、その金で買(mǎi)いたせばよいこと、などを話(huà)した。母もそれに賛成した。そして、荷造りもほぼ終わったこと、かさばる道具類(lèi)は半分ほど処分したが、よい値にならなかったことなどを話(huà)した。
「一、二日休んだら、親戚回りをしてね、そのうえでたつとしよう?!工饶袱涎预盲?。 「ええ?!?BR> 「それから、閏土ね。あれが、いつも家へ來(lái)るたびに、おまえのうわさをしては、しきりに會(huì)いたがっていましたよ。おまえが著くおよその日取りは知らせておいたから、いまに來(lái)るかもしれない?!?BR> この時(shí)突然、わたしの脳裏に不思議な畫(huà)面が繰り広げられた──紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見(jiàn)渡す限り緑の西瓜が植わっている。そのまん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄の刺叉を手にして立っている。そして一匹の「チャー」を目がけて、ヤッとばかり突く。すると「チャー」は、ひらりと身をかわして、彼のまたをくぐって逃げてしまう。
この少年が閏土である。彼と知り合った時(shí)、わたしもまだ十歳そこそこだった。もう三十年近い昔のことである。そのころは、父もまだ生きていたし、家の暮らし向きも楽で、わたしは坊ちゃんでいられた。ちょうどその年は、わが家が大祭の當(dāng)番にあたっていた。この祭りの當(dāng)番というのが、三十何年めにただ一回順?lè)丐盲皮毪趣恰ⅳ搐笄肖市惺陇坤盲?。正月に、祖先の像を祭るのである。さまざまの供物をささげ、祭器もよく吟味するし、參詣の人も多かったので、祭器をとられぬように番をする必要があった。わたしの家には「忙月」が一人いるだけである。(わたしの郷里では、雇い人は三種類(lèi)ある。年間通して決まった家で働くのが「長(zhǎng)年」、日決めで働くのが「短工」、自分でも耕作するかたわら、年末や節(jié)季や年貢集めの時(shí)などに、決まった家へ來(lái)て働くのが「忙月」と呼ばれた。)一人では手が足りぬので、彼は自分の息子の閏土に祭器の番をさせたいが、とわたしの父に申し出た。
父はそれを許した。わたしもうれしかった。というのは、かねて閏土という名は耳にしていたし、同じ年ごろなこと、また閏月の生まれで、五行の土が欠けているので父親が閏土と名づけたことも承知していたから。彼はわなをかけて小鳥(niǎo)を捕るのがうまかった。
それからというもの、來(lái)る日も來(lái)る日も新年が待ち遠(yuǎn)しかった。新年になれば閏土がやって來(lái)る。待ちに待った年末になり、ある日のこと、母がわたしに、閏土が來(lái)たと知らせてくれた。とんでいってみると、彼は臺(tái)所にいた。つやのいい丸顔で、小さな毛織りの帽子をかぶり、キラキラ光る銀の首輪をはめていた。それは父親の溺愛(ài)ぶりを示すもので、どうか息子が死なないようにと神仏に願(yuàn)をかけて、その首輪でつなぎ止めてあるのだ。彼は人見(jiàn)知りだったが、わたしにだけは平気で、そばにだれもいないとよく口をきいた。半日もせずにわたしたちは仲よくなった。
その時(shí)何をしゃべったかは、覚えていない。ただ閏土が、城內(nèi)へ來(lái)ていろいろ珍しいものを見(jiàn)たといって、はしゃいでいたことだけは記憶に殘っている。
明くる日、鳥(niǎo)を捕ってくれと頼むと、彼は、
「だめだよ。大雪が降ってからでなきゃ。おいらとこ、砂地に雪が降るだろ。そうしたら雪をかいて、少し空き地をこしらえるんだ。それから、大きなかごを持ってきて、短いつっかえ棒をかって、くずもみをまくんだ。そうすると、小鳥(niǎo)が來(lái)て食うから、その時(shí)遠(yuǎn)くの方から、棒に結(jié)わえてある縄を引っぱるんだ。そうすると、みんなかごから逃げられないんだ。なんだっているぜ。稲鶏だの、角鶏だの、鳩だの、藍(lán)背だの……。」
それからは雪の降るのが待ち遠(yuǎn)しくなった。
閏土はまた言うのだ。
「今は寒いけどな、夏になったら、おいらとこへ來(lái)るといいや。おいら、晝間は海へ貝殻拾いに行くんだ。赤いのも、青いのも、なんでもあるよ?!腹恧嗓贰工猡ⅳ毪?、「観音様の手」もあるよ。晩には父ちゃんと西瓜の番に行くのさ。おまえも來(lái)いよ?!?BR> 「どろぼうの番?」
「そうじゃない。通りがかりの人が、のどが渇いて西瓜を取って食ったって、そんなの、おいらとこじゃどろぼうなんて思やしない。番するのは、あなぐまや、はりねずみや、チャーさ。月のある晩に、いいかい、ガリガリって音がしたら、チャーが西瓜をかじってるんだ。そうしたら手に刺叉を持って、忍び寄って……。」
その時(shí)わたしはその「チャー」というのがどんなものか、見(jiàn)當(dāng)もつかなかった──今でも見(jiàn)當(dāng)はつかない──が、ただなんとなく、小犬のような、そして獰猛な動(dòng)物だという感じがした。
「かみつかない?」
「刺叉があるじゃないか。忍び寄って、チャーを見(jiàn)つけたら突くのさ。あんちくしょう、りこうだから、こっちへ走ってくるよ。そうしてまたをくぐって逃げてしまうよ。なにしろ毛が油みたいにすべっこくて……?!?BR> こんなにたくさん珍しいことがあろうなど、それまでわたしは思ってもみなかった。海には、そのような五色の貝殻があるものなのか。西瓜には、こんな危険な経歴があるものなのか。わたしは西瓜といえば、果物屋に売っているものとばかり思っていた。
「おいらとこの砂地では、高潮の時(shí)分になると「跳ね魚(yú)」がいっぱい跳ねるよ。みんなかえるみたいな足が二本あって……?!?BR> ああ、閏土の心は神秘の寶庫(kù)で、わたしの遊び仲間とは大違いだ。こんなことはわたしの友達(dá)は何も知ってはいない。閏土が海辺にいる時(shí)、彼らはわたしと同様、高い塀に囲まれた中庭から四角な空を眺めているだけなのだ。
惜しくも正月は過(guò)ぎて、閏土は家へ帰らねばならなかった。別れがつらくて、わたしは聲をあげて泣いた。閏土も臺(tái)所の隅に隠れて、嫌がって泣いていたが、とうとう父親に連れてゆかれた。そのあと、彼は父親にことづけて、貝殻を一包みと、美しい鳥(niǎo)の羽を何本か屆けてくれた。わたしも一、二度何か贈(zèng)り物をしたが、それきり顔を合わす機(jī)會(huì)はなかった。
今、母の口から彼の名が出たので、この子供のころの思い出が、電光のように一挙によみがえり、わたしはやっと美しい故郷を見(jiàn)た思いがした。わたしはすぐこう答えた。
「そりゃいいな。で──今、どんな? ……?!?BR> 「どんなって……やっぱり、楽ではないようだが……?!工饯Υ黏à颇袱?、戸外へ目をやった。
「あの連中、また來(lái)ている。道具を買(mǎi)うという口実で、その辺にあるものを勝手に持っていくのさ。ちょっと見(jiàn)てくるからね?!?BR> 母は立ち上がって出ていった。外では、數(shù)人の女の聲がしていた。わたしは宏児をこちらへ呼んで、話(huà)し相手になってやった。字は書(shū)ける? よそへ行くの、うれしい? などなど。
「汽車(chē)に乗ってゆくの?」
「汽車(chē)に乗ってゆくんだよ。」
「お船は?」
「初めに、お船に乗って……?!?BR> 「まあまあ、こんなになって、ひげをこんなに生やして?!共灰猡摔蟾撙ぢ暏懁い?。
びっくりして頭を上げてみると、わたしの前には、ほお骨の出た、唇の薄い、五十がらみの女が立っていた。両手を腰にあてがい、スカートをはかないズボン姿で足を開(kāi)いて立ったところは、まるで製図用の腳の細(xì)いコンパスそっくりだった。
わたしはドキンとした。
「忘れたかね? よくだっこしてあげたものだが。」
ますますドキンとした。幸い、母が現(xiàn)れて口添えしてくれた。
「長(zhǎng)いこと家にいなかったから、見(jiàn)忘れてしまってね。おまえ、覚えているだろ。」
とわたしに向かって、「ほら、筋向かいの楊おばさん……豆腐屋の?!?BR> そうそう、思い出した。そういえば子供のころ、筋向かいの豆腐屋に、楊おばさんという人が一日じゅう座っていて、「豆腐屋小町」と呼ばれていたっけ。しかし、その人なら白粉を塗っていたし、ほお骨もこんなに出ていないし、唇もこんなに薄くはなかったはずだ。それに一日じゅう座っていたのだから、こんなコンパスのような姿勢(shì)は、見(jiàn)ようにも見(jiàn)られなかった。そのころうわさでは、彼女のおかげで豆腐屋は商売繁盛だとされた。たぶん年齢のせいだろうか、わたしはそういうことにさっぱり関心がなかった。そのため見(jiàn)忘れてしまったのである。ところがコンパスのほうでは、それがいかにも不服らしく、さげすむような表情を見(jiàn)せた。まるでフランス人のくせにナポレオンを知らず、アメリカ人のくせにワシントンを知らぬのをあざけるといった調(diào)子で、冷笑を浮かべながら、
「忘れたのかい? なにしろ身分のあるおかたは目が上を向いているからね……?!?BR> 「そんなわけじゃないよ……ぼくは……?!工铯郡筏悉嗓蓼筏?、立ち上がった。
「それならね、お聞きなさいよ、迅ちゃん。あんた、金持ちになったんでしょ。持ち運(yùn)びだって、重くて不便ですよ。こんなガラクタ道具、じゃまだから、あたしにくれてしまいなさいよ。あたしたち貧乏人には、けっこう役に立ちますからね?!?BR> 「ぼくは金持ちじゃないよ。これを売って、その金で……?!?BR> 「おやおや、まあまあ、知事様になっても金持ちじゃない? 現(xiàn)にお妾が三人もいて、お出ましは八人かきのかごで、それでも金持ちじゃない? フン、だまそうたって、そうはいきませんよ。」
返事のしようがないので、わたしは口を閉じたまま立っていた。
「ああ、ああ、金がたまれば財(cái)布のひもを締める。財(cái)布のひもを締めるからまたたまる……?!攻偿螗靴工?、ふくれっつらで背を向けると、ぶつぶつ言いながら、ゆっくりした足どりで出ていった。行きがけの駄賃に母の手袋をズボンの下へねじ込んで。
そのあと、近所にいる親戚が何人も訪(fǎng)ねてきた。その応対に追われながら、暇をみて荷ごしらえをした。そんなことで四、五日つぶれた。
ある寒い日の午後、わたしは食後の茶でくつろいでいた。表に人の気配がしたので、振り向いてみた。思わずアッと聲が出かかった。急いで立ち上がって迎えた。
來(lái)た客は閏土である。ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、わたしの記憶にある閏土とは似もつかなかった。背丈は倍ほどになり、昔のつやのいい丸顔は、今では黃ばんだ色に変わり、しかも深いしわがたたまれていた。目も、彼の父親がそうであったように、周りが赤くはれている。わたしは知っている。海辺で耕作する者は、一日じゅう潮風(fēng)に吹かれるせいで、よくこうなる。頭には古ぼけた毛織りの帽子、身には薄手の綿入れ一枚、全身ぶるぶる震えている。紙包みと長(zhǎng)いきせるを手に提げている。その手も、わたしの記憶にある血色のいい、まるまるした手ではなく、太い、節(jié)くれだった、しかもひび割れた、松の幹のような手である。
わたしは感激で胸がいっぱいになり、しかしどう口をきいたものやら思案がつかぬままに、ひと言、
「ああ、閏ちゃん──よく來(lái)たね……?!?BR> 続いて言いたいことが、あとからあとから、數(shù)珠つなぎになって出かかった。角鶏、跳ね魚(yú)、貝殻、チャー……だがそれらは、何かでせき止められたように、頭の中を駆けめぐるだけで、口からは出なかった。
彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現(xiàn)れた。唇が動(dòng)いたが、聲にはならなかった。最後に、うやうやしい態(tài)度に変わって、はっきりこう言った。
「だんな様! ……?!?BR> わたしは身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた。わたしは口がきけなかった。
彼は後ろを向いて、「水生、だんな様におじぎしな?!工妊预盲啤⒈摔伪长穗Lれていた子供を前へ出した。これぞまさしく三十年前の閏土であった。いくらかやせて、顔色が悪く、銀の首輪もしていない違いはあるけれども?!袱长欷宸幛巫婴扦搐钉い蓼?。世間へ出さぬものですから、おどおどしておりまして……?!?BR> 母と宏児が二階から降りてきた。話(huà)し聲を聞きつけたのだろう。
「ご隠居様、お手紙は早くにいただきました。全く、うれしくてたまりませんでした、だんな様がお帰りになると聞きまして……?!工乳c土は言った。
「まあ、なんだってそんな、他人行儀にするんだね。おまえたち、昔は兄弟の仲じゃないか。昔のように、迅ちゃん、でいいんだよ。」と母は、うれしそうに言った。
「めっそうな、ご隠居様、なんとも……とんでもないことでございます。あのころは子供で、なんのわきまえもなく……?!工饯筏皮蓼郡馑蚯挨顺訾筏皮袱丹护瑜Δ趣筏郡?、子供ははにかんで、父親の背にしがみついたままだった。
「これが水生? 五番めだね。知らない人ばかりだから、はにかむのも無(wú)理ない。宏児や、あちらで一緒に遊んでおやり?!工饶袱涎预盲?。
言われて宏児は、水生を誘い、水生もうれしそうに、そろって出ていった。母は閏土に席を勧めた。彼はしばらくためらったあと、ようやく腰を下ろした。長(zhǎng)ぎせるをテーブルに立てかけて、紙包みを差し出した。
「冬場(chǎng)は、ろくなものがございません。少しばかり、青豆の干したのですが、自分とこのですから、どうかだんな様に……?!?BR> わたしは、暮らし向きについて尋ねた。彼は首を振るばかりだった。
「とてもとても。今では六番めの子も役に立ちますが、それでも追っつけません……世間は物騒だし……どっちを向いても金は取られほうだい、きまりもなにも……作柄もよくございません。作った物を売りに行けば、何度も稅金を取られて、元は切れるし、そうかといって売らなければ、腐らせるばかりで……。」
首を振りどおしである。顔にはたくさんのしわがたたまれているが、まるで石像のように、そのしわは少しも動(dòng)かなかった??啶筏撙蚋肖袱悉筏皮?、それを言い表すすべがないように、しばらく沈黙し、それからきせるを取り上げて、黙々とたばこをふかした。
母が都合をきくと、家に用が多いから、明日は帰らねばならぬという。それに晝飯もまだと言うので、自分で臺(tái)所へ行って、飯をいためて食べるように勧めた。
彼が出ていったあと、母とわたしとは彼の境遇を思ってため息をついた。子だくさん、兇作、重い稅金、兵隊(duì)、匪賊、役人、地主、みんな寄ってたかって彼をいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ。母は、持っていかぬ品物はみんなくれてやろう、好きなように選ばせよう、とわたしに言った。
午後、彼は品物を選び出した。長(zhǎng)テーブル二個(gè)、いす四腳、香爐と燭臺(tái)一組み、大秤一本。そのほかわら灰もみんな欲しいと言った。(わたしたちのところでは、炊事の時(shí)わらを燃す。その灰は砂地の肥料になる。)わたしたちが旅立つ時(shí)來(lái)て船で運(yùn)ぶ、と言った。
夜はまた世間話(huà)をした。とりとめのない話(huà)ばかりだった。明くる日の朝、彼は水生を連れて帰っていった。
それからまた九日して、わたしたちの旅立ちの日になった。閏土は朝から來(lái)ていた。水生は連れずに、五歳になる女の子に船の番をさせていた。それぞれに一日じゅう忙しくて、もう話(huà)をする暇はなかった??亭舛啶盲?。見(jiàn)送りに來(lái)る者、品物を取りに來(lái)る者、見(jiàn)送りがてら品物を取りに來(lái)る者。夕方になって、わたしたちが船に乗り込むころには、この古い家にあった大小さまざまのガラクタ類(lèi)は、すっかり片づいていた。
船はひたすら前進(jìn)した。両岸の緑の山々は、たそがれの中で薄墨色に変わり、次次と船尾に消えた。
わたしと一緒に窓辺にもたれて、暮れてゆく外の景色を眺めていた宏児が、ふと問(wèn)いかけた。
「おじさん、ぼくたち、いつ帰ってくるの?」
「帰ってくる? どうしてまた、行きもしないうちに、帰るなんて考えたんだい?」
「だって、水生がぼくに、家へ遊びに來(lái)いって?!?BR> 大きな黒い目をみはって、彼はじっと考えこんでいた。
わたしも、わたしの母も、はっと胸をつかれた。そして話(huà)がまた閏土のことに戻った。母はこう語(yǔ)った。例の豆腐屋小町の楊おばさんは、わたしの家で片づけが始まってから、毎日必ずやってきたが、おととい、灰の山からわんや皿を十個(gè)あまり掘り出した。あれこれ議論の末、それは閏土が埋めておいたにちがいない、灰を運(yùn)ぶ時(shí)、一緒に持ち帰れるから、という結(jié)論になった。楊おばさんは、この発見(jiàn)を手柄顔に、「犬じらし」(これはわたしたちのところで鶏を飼うのに使う。木の板にさくを取り付けた道具で、中に食べ物を入れておくと、鶏は首を伸ばしてついばむことができるが、犬にはできないので、見(jiàn)てじれるだけである。)をつかんで飛ぶように走り去った。てん足用の底の高い靴で、よくもと思うほど速かったそうだ。
古い家はますます遠(yuǎn)くなり、故郷の山や水もますます遠(yuǎn)くなる。だが名殘惜しい気はしない。自分の周りに目に見(jiàn)えぬ高い壁があって、その中に自分だけ取り殘されたように、気がめいるだけである。西瓜畑の銀の首輪の小英雄の面影は、もとは鮮明このうえなかったのが、今では急にぼんやりしてしまった。これもたまらなく悲しい。
母と宏児とは寢入った。
わたしも橫になって、船の底に水のぶつかる音を聞きながら、今、自分は、自分の道を歩いているとわかった。思えばわたしと閏土との距離は全く遠(yuǎn)くなったが、若い世代は今でも心が通い合い、現(xiàn)に宏児は水生のことを慕っている。せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように……とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、わたしのように、無(wú)駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願(yuàn)わない。また閏土のように、打ちひしがれて心がまひする生活をともにすることも願(yuàn)わない。また他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活をともにすることも願(yuàn)わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を。
希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香爐と燭臺(tái)を所望した時(shí)、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ。
まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
我冒了嚴(yán)寒,回到相隔二千余里,別了二十余年的故鄉(xiāng)去。
時(shí)候既然是深冬;漸近故鄉(xiāng)時(shí),天氣又陰晦了,冷風(fēng)吹進(jìn)船艙中,嗚嗚的響,從蓬隙向外一望,蒼黃的天底下,遠(yuǎn)近橫著幾個(gè)蕭索的荒村,沒(méi)有一些活氣。我的心禁不住悲涼起來(lái)了。阿!這不是我二十年來(lái)時(shí)時(shí)記得的故鄉(xiāng)?
我所記得的故鄉(xiāng)全不如此。我的故鄉(xiāng)好得多了。但要我記起他的美麗,說(shuō)出他的佳處來(lái),卻又沒(méi)有影像,沒(méi)有言辭了。仿佛也就如此。于是我自己解釋說(shuō):故鄉(xiāng)本也如此,——雖然沒(méi)有進(jìn)步,也未必有如我所感的悲涼,這只是我自己心情的改變罷了,因?yàn)槲疫@次回鄉(xiāng),本沒(méi)有什么好心緒。
我這次是專(zhuān)為了別他而來(lái)的。我們多年聚族而居的老屋,已經(jīng)公同賣(mài)給別姓了,交屋的期限,只在本年,所以必須趕在正月初一以前,永別了熟識(shí)的老屋,而且遠(yuǎn)離了熟識(shí)的故鄉(xiāng),搬家到我在謀食的異地去。
第二日清早晨我到了我家的門(mén)口了。瓦楞上許多枯草的斷莖當(dāng)風(fēng)抖著,正在說(shuō)明這老屋難免易主的原因。幾房的本家大約已經(jīng)搬走了,所以很寂靜。我到了自家的房外,我的母親早已迎著出來(lái)了,接著便飛出了八歲的侄兒宏兒。
我的母親很高興,但也藏著許多凄涼的神情,教我坐下,歇息,喝茶,且不談搬家的事。宏兒沒(méi)有見(jiàn)過(guò)我,遠(yuǎn)遠(yuǎn)的對(duì)面站著只是看。
但我們終于談到搬家的事。我說(shuō)外間的寓所已經(jīng)租定了,又買(mǎi)了幾件家具,此外須將家里所有的木器賣(mài)去,再去增添。母親也說(shuō)好,而且行李也略已齊集,木器不便搬運(yùn)的,也小半賣(mài)去了,只是收不起錢(qián)來(lái)。
“你休息一兩天,去拜望親戚本家一回,我們便可以走了。”母親說(shuō)。
“是的?!?BR> “還有閏土,他每到我家來(lái)時(shí),總問(wèn)起你,很想見(jiàn)你一回面。我已經(jīng)將你到家的大約日期通知他,他也許就要來(lái)了?!?BR> 這時(shí)候,我的腦里忽然閃出一幅神異的圖畫(huà)來(lái):深藍(lán)的天空中掛著一輪金黃的圓月,下面是海邊的沙地,都種著一望無(wú)際的碧綠的西瓜,其間有一個(gè)十一二歲的少年,項(xiàng)帶銀圈,手捏一柄鋼叉,向一匹猹盡力的刺去,那猹卻將身一扭,反從他的胯下逃走了。
這少年便是閏土。我認(rèn)識(shí)他時(shí),也不過(guò)十多歲,離現(xiàn)在將有三十年了;那時(shí)我的父親還在世,家景也好,我正是一個(gè)少爺。那一年,我家是一件大祭祀的值年。這祭祀,說(shuō)是三十多年才能輪到一回,所以很鄭重;正月里供祖像,供品很多,祭器很講究,拜的人也很多,祭器也很要防偷去。我家只有一個(gè)忙月(我們這里給人做工的分三種:整年給一定人家做工的叫長(zhǎng)工;按日給人做工的叫短工;自己也種地,只在過(guò)年過(guò)節(jié)以及收租時(shí)候來(lái)給一定人家做工的稱(chēng)忙月),忙不過(guò)來(lái),他便對(duì)父親說(shuō),可以叫他的兒子閏土來(lái)管祭器的。
我的父親允許了;我也很高興,因?yàn)槲以缏?tīng)到閏土這名字,而且知道他和我仿佛年紀(jì),閏月生的,五行缺土,所以他的父親叫他閏土。他是能裝弶捉小鳥(niǎo)雀的。
我于是日日盼望新年,新年到,閏土也就到了。好容易到了年末,有一日,母親告訴我,閏土來(lái)了,我便飛跑的去看。他正在廚房里,紫色的圓臉,頭戴一頂小氈帽,頸上套一個(gè)明晃晃的銀項(xiàng)圈,這可見(jiàn)他的父親十分愛(ài)他,怕他死去,所以在神佛面前許下愿心,用圈子將他套住了。他見(jiàn)人很怕羞,只是不怕我,沒(méi)有旁人的時(shí)候,便和我說(shuō)話(huà),于是不到半日,我們便熟識(shí)了。
我們那時(shí)候不知道談些什么,只記得閏土很高興,說(shuō)是上城之后,見(jiàn)了許多沒(méi)有見(jiàn)過(guò)的東西。
第二日,我便要他捕鳥(niǎo)。他說(shuō): “這不能。須大雪下了才好。我們沙地上,下了雪,我掃出一塊空地來(lái),用短棒支起一個(gè)大竹匾,撒下秕谷,看鳥(niǎo)雀來(lái)吃時(shí),我遠(yuǎn)遠(yuǎn)地將縛在棒上的繩子只一拉,那鳥(niǎo)雀就罩在竹匾下了。什么都有:稻雞,角雞,鵓鴣,藍(lán)背……”
我于是又很盼望下雪。
閏土又對(duì)我說(shuō): “現(xiàn)在太冷,你夏天到我們這里來(lái)。我們?nèi)绽锏胶_厯熵悮と?,紅的綠的都有,鬼見(jiàn)怕也有,觀音手也有。晚上我和爹管西瓜去,你也去?!?BR> “管賊么?”
“不是。走路的人口渴了摘一個(gè)瓜吃,我們這里是不算偷的。要管的是獾豬,刺猬,猹。月亮底下,你聽(tīng),啦啦的響了,猹在咬瓜了。你便捏了胡叉,輕輕地走去……”
我那時(shí)并不知道這所謂猹的是怎么一件東西——便是現(xiàn)在也沒(méi)有知道——只是無(wú)端的覺(jué)得狀如小狗而很兇猛。
“他不咬人么?”
“有胡叉呢。走到了,看見(jiàn)猹了,你便刺。這畜生很伶俐,倒向你奔來(lái),反從胯下竄了。他的皮毛是油一般的滑……”
我素不知道天下有這許多新鮮事:海邊有如許五色的貝殼;西瓜有這樣危險(xiǎn)的經(jīng)歷,我先前單知道他在水果電里出賣(mài)罷了。
“我們沙地里,潮汛要來(lái)的時(shí)候,就有許多跳魚(yú)兒只是跳,都有青蛙似的兩個(gè)腳……”
阿!閏土的心里有無(wú)窮無(wú)盡的希奇的事,都是我往常的朋友所不知道的。他們不知道一些事,閏土在海邊時(shí),他們都和我一樣只看見(jiàn)院子里高墻上的四角的天空。
可惜正月過(guò)去了,閏土須回家里去,我急得大哭,他也躲到廚房里,哭著不肯出門(mén),但終于被他父親帶走了。他后來(lái)還托他的父親帶給我一包貝殼和幾支很好看的鳥(niǎo)毛,我也曾送他一兩次東西,但從此沒(méi)有再見(jiàn)面。
現(xiàn)在我的母親提起了他,我這兒時(shí)的記憶,忽而全都閃電似的蘇生過(guò)來(lái),似乎看到了我的美麗的故鄉(xiāng)了。我應(yīng)聲說(shuō): “這好極!他,——怎樣?……”
“他?……他景況也很不如意……”母親說(shuō)著,便向房外看,“這些人又來(lái)了。說(shuō)是買(mǎi)木器,順手也就隨便拿走的,我得去看看?!?BR> 母親站起身,出去了。門(mén)外有幾個(gè)女人的聲音。我便招宏兒走近面前,和他閑話(huà):?jiǎn)査蓵?huì)寫(xiě)字,可愿意出門(mén)。
“我們坐火車(chē)去么?”
“我們坐火車(chē)去?!?BR> “船呢?”
“先坐船,……”
“哈!這模樣了!胡子這么長(zhǎng)了!”一種尖利的怪聲突然大叫起來(lái)。
我吃了一嚇,趕忙抬起頭,卻見(jiàn)一個(gè)凸顴骨,薄嘴唇,五十歲上下的女人站在我面前,兩手搭在髀間,沒(méi)有系裙,張著兩腳,正像一個(gè)畫(huà)圖儀器里細(xì)腳伶仃的圓規(guī)。
我愕然了。
“不認(rèn)識(shí)了么?我還抱過(guò)你咧!”
我愈加愕然了。幸而我的母親也就進(jìn)來(lái),從旁說(shuō): “他多年出門(mén),統(tǒng)忘卻了。你該記得罷,”便向著我說(shuō),“這是斜對(duì)門(mén)的楊二嫂,……開(kāi)豆腐店的?!?BR> 哦,我記得了。我孩子時(shí)候,在斜對(duì)門(mén)的豆腐店里確乎終日坐著一個(gè)楊二嫂,人都叫伊“豆腐西施”。但是擦著白粉,顴骨沒(méi)有這么高,嘴唇也沒(méi)有這么薄,而且終日坐著,我也從沒(méi)有見(jiàn)過(guò)這圓規(guī)式的姿勢(shì)。那時(shí)人說(shuō):因?yàn)橐?,這豆腐店的買(mǎi)賣(mài)非常好。但這大約因?yàn)槟挲g的關(guān)系,我卻并未蒙著一毫感化,所以竟完全忘卻了。然而圓規(guī)很不平,顯出鄙夷的神色,仿佛嗤笑法國(guó)人不知道拿破侖,美國(guó)人不知道華盛頓似的,冷笑說(shuō): “忘了?這真是貴人眼高……”
“那有這事……我……”我惶恐著,站起來(lái)說(shuō)。
“那么,我對(duì)你說(shuō)。迅哥兒,你闊了,搬動(dòng)又笨重,你還要什么這些破爛木器,讓我拿去罷。我們小戶(hù)人家,用得著。”
“我并沒(méi)有闊哩。我須賣(mài)了這些,再去……”
“阿呀呀,你放了道臺(tái)了,還說(shuō)不闊?你現(xiàn)在有三房姨太太;出門(mén)便是八抬的大轎,還說(shuō)不闊?嚇,什么都瞞不過(guò)我?!?BR> 我知道無(wú)話(huà)可說(shuō)了,便閉了口,默默的站著。
“阿呀阿呀,真是愈有錢(qián),便愈是一毫不肯放松,愈是一毫不肯放松,便愈有錢(qián)……”圓規(guī)一面憤憤的回轉(zhuǎn)身,一面絮絮的說(shuō),慢慢向外走,順便將我母親的一副手套塞在褲腰里,出去了。
此后又有近處的本家和親戚來(lái)訪(fǎng)問(wèn)我。我一面應(yīng)酬,偷空便收拾些行李,這樣的過(guò)了三四天。
一日是天氣很冷的午后,我吃過(guò)午飯,坐著喝茶,覺(jué)得外面有人進(jìn)來(lái)了,便回頭去看。我看時(shí),不由的非常出驚,慌忙站起身,迎著走去。
這來(lái)的便是閏土。雖然我一見(jiàn)便知道是閏土,但又不是我這記憶上的閏土了。他身材增加了一倍;先前的紫色的圓臉,已經(jīng)變作灰黃,而且加上了很深的皺紋;眼睛也像他父親一樣,周?chē)寄[得通紅,這我知道,在海邊種地的人,終日吹著海風(fēng),大抵是這樣的。他頭上是一頂破氈帽,身上只一件極薄的棉衣,渾身瑟索著;手里提著一個(gè)紙包和一支長(zhǎng)煙管,那手也不是我所記得的紅活圓實(shí)的手,卻又粗又笨而且開(kāi)裂,像是松樹(shù)皮了。
我這時(shí)很興奮,但不知道怎么說(shuō)才好,只是說(shuō): “阿!閏土哥,——你來(lái)了?……”
我接著便有許多話(huà),想要連珠一般涌出:角雞,跳魚(yú)兒,貝殼,猹,……但又總覺(jué)得被什么擋著似的,單在腦里面回旋,吐不出口外去。
他站住了,臉上現(xiàn)出歡喜和凄涼的神情;動(dòng)著嘴唇,卻沒(méi)有作聲。他的態(tài)度終于恭敬起來(lái)了,分明的叫道: “老爺!……”
我似乎打了一個(gè)寒噤;我就知道,我們之間已經(jīng)隔了一層可悲的厚障壁了。我也說(shuō)不出話(huà)。
他回過(guò)頭去說(shuō),“水生,給老爺磕頭。”便拖出躲在背后的孩子來(lái),這正是一個(gè)廿年前的閏土,只是黃瘦些,頸子上沒(méi)有銀圈罷了。“這是第五個(gè)孩子,沒(méi)有見(jiàn)過(guò)世面,躲躲閃閃……”
母親和宏兒下樓來(lái)了,他們大約也聽(tīng)到了聲音。
“老太太。信是早收到了。我實(shí)在喜歡的不得了,知道老爺回來(lái)……”閏土說(shuō)。
“阿,你怎的這樣客氣起來(lái)。你們先前不是哥弟稱(chēng)呼么?還是照舊:迅哥兒?!蹦赣H高興的說(shuō)。
“阿呀,老太太真是……這成什么規(guī)矩。那時(shí)是孩子,不懂事……”閏土說(shuō)著,又叫水生上來(lái)打拱,那孩子卻害羞,緊緊的只貼在他背后。
“他就是水生?第五個(gè)?都是生人,怕生也難怪的;還是宏兒和他去走走?!蹦赣H說(shuō)。
宏兒聽(tīng)得這話(huà),便來(lái)招水生,水生卻松松爽爽同他一路出去了。母親叫閏土坐,他遲疑了一回,終于就了坐,將長(zhǎng)煙管靠在桌旁,遞過(guò)紙包來(lái),說(shuō):“冬天沒(méi)有什么東西了。這一點(diǎn)干青豆倒是自家曬在那里的,請(qǐng)老爺……”
我問(wèn)問(wèn)他的景況。他只是搖頭。
“非常難。第六個(gè)孩子也會(huì)幫忙了,卻總是吃不夠……又不太平……什么地方都要錢(qián),沒(méi)有規(guī)定……收成又壞。種出東西來(lái),挑去賣(mài),總要捐幾回錢(qián),折了本;不去賣(mài),又只能爛掉……”
他只是搖頭;臉上雖然刻著許多皺紋,卻全然不動(dòng),仿佛石像一般。他大約只是覺(jué)得苦,卻又形容不出,沉默了片時(shí),便拿起煙管來(lái)默默的吸煙了。
母親問(wèn)他,知道他的家里事務(wù)忙,明天便得回去;又沒(méi)有吃過(guò)午飯,便叫他自己到廚下炒飯吃去。
他出去了;母親和我都嘆息他的景況:多子,饑荒,苛稅,兵,匪,官,紳,都苦得他像一個(gè)木偶人了。母親對(duì)我說(shuō),凡是不必搬走的東西,盡可以送他,可以聽(tīng)他自己去揀擇。
下午,他揀好了幾件東西:兩條長(zhǎng)桌,四個(gè)椅子,一副香爐和燭臺(tái),一桿抬秤。他又要所有的草灰(我們這里煮飯是燒稻草的,那灰,可以做沙地的肥料),待我們啟程的時(shí)候,他用船來(lái)載去。
夜間,我們又談些閑天,都是無(wú)關(guān)緊要的話(huà);第二天早晨,他就領(lǐng)了水生回去了。
又過(guò)了九日,是我們啟程的日期。閏土早晨便到了,水生沒(méi)有同來(lái),卻只帶著一個(gè)五歲的女兒管船只。我們終日很忙碌,再?zèng)]有談天的工夫。來(lái)客也不少,有送行的,有拿東西的,有送行兼拿東西的。待到傍晚我們上船的時(shí)候,這老屋里的所有破舊大小粗細(xì)東西,已經(jīng)一掃而空了。
我們的船向前走,兩岸的青山在黃昏中,都裝成了深黛顏色,連著退向船后梢去。
宏兒和我靠著船窗,同看外面模糊的風(fēng)景,他忽然問(wèn)道: “大伯!我們什么時(shí)候回來(lái)?”
“回來(lái)?你怎么還沒(méi)有走就想回來(lái)了?!?BR> “可是,水生約我到他家玩去咧……”他睜著大的黑眼睛,癡癡的想。
我和母親也都有些惘然,于是又提起閏土來(lái)。母親說(shuō),那豆腐西施的楊二嫂,自從我家收拾行李以來(lái),本是每日必到的,前天伊在灰堆里,掏出十多個(gè)碗碟來(lái),議論之后,便定說(shuō)是閏土埋著的,他可以在運(yùn)灰的時(shí)候,一齊搬回家里去;楊二嫂發(fā)見(jiàn)了這件事,自己很以為功,便拿了那狗氣殺(這是我們這里養(yǎng)雞的器具,木盤(pán)上面有著柵欄,內(nèi)盛食料,雞可以伸進(jìn)頸子去啄,狗卻不能,只能看著氣死),飛也似的跑了,虧伊裝著這么高低的小腳,竟跑得這樣快。
老屋離我愈遠(yuǎn)了;故鄉(xiāng)的山水也都漸漸遠(yuǎn)離了我,但我卻并不感到怎樣的留戀。我只覺(jué)得我四面有看不見(jiàn)的高墻,將我隔成孤身,使我非常氣悶;那西瓜地上的銀項(xiàng)圈的小英雄的影像,我本來(lái)十分清楚,現(xiàn)在卻忽地模糊了,又使我非常的悲哀。
母親和宏兒都睡著了。
我躺著,聽(tīng)船底潺潺的水聲,知道我在走我的路。我想:我竟與閏土隔絕到這地步了,但我們的后輩還是一氣,宏兒不是正在想念水生么。我希望他們不再像我,又大家隔膜起來(lái)……然而我又不愿意他們因?yàn)橐粴?,都如我的辛苦展轉(zhuǎn)而生活,也不愿意他們都如閏土的辛苦麻木而生活,也不愿意都如別人的辛苦恣睢而生活。他們應(yīng)該有新的生活,為我們所未經(jīng)生活過(guò)的。
我想到希望,忽然害怕起來(lái)了。閏土要香爐和燭臺(tái)的時(shí)候,我還暗地里笑他,以為他總是崇拜偶像,什么時(shí)候都不忘卻?,F(xiàn)在我所謂希望,不也是我自己手制的偶像么?只是他的愿望切近,我的愿望茫遠(yuǎn)罷了。
我在朦朧中,眼前展開(kāi)一片海邊碧綠的沙地來(lái),上面深藍(lán)的天空中掛著一輪金黃的圓月。我想:希望本是無(wú)所謂有,無(wú)所謂無(wú)的。這正如地上的路;其實(shí)地上本沒(méi)有路,走的人多了,也便成了路。
一九二一年一月。
もう真冬の候であった。そのうえ故郷へ近づくにつれて、空模様は怪しくなり、冷たい風(fēng)がヒューヒュー音をたてて、船の中まで吹き込んできた。苫のすきまから外をうかがうと、鉛色の空の下、わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちに橫たわっていた。覚えず寂寥の感が胸にこみあげた。
ああ、これが二十年來(lái)、片時(shí)も忘れることのなかった故郷であろうか。
わたしの覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった。わたしの故郷は、もっとずっとよかった。その美しさを思い浮かべ、その長(zhǎng)所を言葉に表そうとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。やはりこんなふうだったかもしれないという気がしてくる。そこでわたしは、こう自分に言い聞かせた。もともと故郷はこんなふうなのだ──進(jìn)歩もないかわりに、わたしが感じるような寂寥もありはしない。そう感じるのは、自分の心境が変わっただけだ。なぜなら、今度の帰郷は決して楽しいものではないのだから。
今度は、故郷に別れを告げに來(lái)たのである。わたしたちが長(zhǎng)いこと一族で住んでいた古い家は、今はもう他人の持ち物になってしまった。明け渡しの期限は今年いっぱいである。どうしても舊暦の正月の前に、住み慣れた古い家に別れ、なじみ深い故郷をあとにして、わたしが今暮らしを立てている異郷の地へ引っ越さねばならない。
明くる日の朝早く、わたしはわが家の表門(mén)に立った。屋根には一面に枯れ草のやれ莖が、折からの風(fēng)になびいて、この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由を説き明かし顔である。一緒に住んでいた親戚たちは、もう引っ越してしまったあとらしく、ひっそり閑としている。自宅の庭先まで來(lái)てみると、母はもう迎えに出ていた。あとから八歳になる甥の宏児もとび出した。
母は機(jī)嫌よかったが、さすがにやるせない表情は隠しきれなかった。わたしを座らせ、休ませ、茶をついでくれなどして、すぐ引っ越しの話(huà)はもち出さない。宏児は、わたしとは初対面なので、離れた所に立って、じっとわたしの方を見(jiàn)つめていた。
だが、とうとう引っ越しの話(huà)になった。わたしは、あちらの家はもう借りてあること、家具も少しは買(mǎi)ったこと、あとは家にある道具類(lèi)をみんな売り払って、その金で買(mǎi)いたせばよいこと、などを話(huà)した。母もそれに賛成した。そして、荷造りもほぼ終わったこと、かさばる道具類(lèi)は半分ほど処分したが、よい値にならなかったことなどを話(huà)した。
「一、二日休んだら、親戚回りをしてね、そのうえでたつとしよう?!工饶袱涎预盲?。 「ええ?!?BR> 「それから、閏土ね。あれが、いつも家へ來(lái)るたびに、おまえのうわさをしては、しきりに會(huì)いたがっていましたよ。おまえが著くおよその日取りは知らせておいたから、いまに來(lái)るかもしれない?!?BR> この時(shí)突然、わたしの脳裏に不思議な畫(huà)面が繰り広げられた──紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見(jiàn)渡す限り緑の西瓜が植わっている。そのまん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄の刺叉を手にして立っている。そして一匹の「チャー」を目がけて、ヤッとばかり突く。すると「チャー」は、ひらりと身をかわして、彼のまたをくぐって逃げてしまう。
この少年が閏土である。彼と知り合った時(shí)、わたしもまだ十歳そこそこだった。もう三十年近い昔のことである。そのころは、父もまだ生きていたし、家の暮らし向きも楽で、わたしは坊ちゃんでいられた。ちょうどその年は、わが家が大祭の當(dāng)番にあたっていた。この祭りの當(dāng)番というのが、三十何年めにただ一回順?lè)丐盲皮毪趣恰ⅳ搐笄肖市惺陇坤盲?。正月に、祖先の像を祭るのである。さまざまの供物をささげ、祭器もよく吟味するし、參詣の人も多かったので、祭器をとられぬように番をする必要があった。わたしの家には「忙月」が一人いるだけである。(わたしの郷里では、雇い人は三種類(lèi)ある。年間通して決まった家で働くのが「長(zhǎng)年」、日決めで働くのが「短工」、自分でも耕作するかたわら、年末や節(jié)季や年貢集めの時(shí)などに、決まった家へ來(lái)て働くのが「忙月」と呼ばれた。)一人では手が足りぬので、彼は自分の息子の閏土に祭器の番をさせたいが、とわたしの父に申し出た。
父はそれを許した。わたしもうれしかった。というのは、かねて閏土という名は耳にしていたし、同じ年ごろなこと、また閏月の生まれで、五行の土が欠けているので父親が閏土と名づけたことも承知していたから。彼はわなをかけて小鳥(niǎo)を捕るのがうまかった。
それからというもの、來(lái)る日も來(lái)る日も新年が待ち遠(yuǎn)しかった。新年になれば閏土がやって來(lái)る。待ちに待った年末になり、ある日のこと、母がわたしに、閏土が來(lái)たと知らせてくれた。とんでいってみると、彼は臺(tái)所にいた。つやのいい丸顔で、小さな毛織りの帽子をかぶり、キラキラ光る銀の首輪をはめていた。それは父親の溺愛(ài)ぶりを示すもので、どうか息子が死なないようにと神仏に願(yuàn)をかけて、その首輪でつなぎ止めてあるのだ。彼は人見(jiàn)知りだったが、わたしにだけは平気で、そばにだれもいないとよく口をきいた。半日もせずにわたしたちは仲よくなった。
その時(shí)何をしゃべったかは、覚えていない。ただ閏土が、城內(nèi)へ來(lái)ていろいろ珍しいものを見(jiàn)たといって、はしゃいでいたことだけは記憶に殘っている。
明くる日、鳥(niǎo)を捕ってくれと頼むと、彼は、
「だめだよ。大雪が降ってからでなきゃ。おいらとこ、砂地に雪が降るだろ。そうしたら雪をかいて、少し空き地をこしらえるんだ。それから、大きなかごを持ってきて、短いつっかえ棒をかって、くずもみをまくんだ。そうすると、小鳥(niǎo)が來(lái)て食うから、その時(shí)遠(yuǎn)くの方から、棒に結(jié)わえてある縄を引っぱるんだ。そうすると、みんなかごから逃げられないんだ。なんだっているぜ。稲鶏だの、角鶏だの、鳩だの、藍(lán)背だの……。」
それからは雪の降るのが待ち遠(yuǎn)しくなった。
閏土はまた言うのだ。
「今は寒いけどな、夏になったら、おいらとこへ來(lái)るといいや。おいら、晝間は海へ貝殻拾いに行くんだ。赤いのも、青いのも、なんでもあるよ?!腹恧嗓贰工猡ⅳ毪?、「観音様の手」もあるよ。晩には父ちゃんと西瓜の番に行くのさ。おまえも來(lái)いよ?!?BR> 「どろぼうの番?」
「そうじゃない。通りがかりの人が、のどが渇いて西瓜を取って食ったって、そんなの、おいらとこじゃどろぼうなんて思やしない。番するのは、あなぐまや、はりねずみや、チャーさ。月のある晩に、いいかい、ガリガリって音がしたら、チャーが西瓜をかじってるんだ。そうしたら手に刺叉を持って、忍び寄って……。」
その時(shí)わたしはその「チャー」というのがどんなものか、見(jiàn)當(dāng)もつかなかった──今でも見(jiàn)當(dāng)はつかない──が、ただなんとなく、小犬のような、そして獰猛な動(dòng)物だという感じがした。
「かみつかない?」
「刺叉があるじゃないか。忍び寄って、チャーを見(jiàn)つけたら突くのさ。あんちくしょう、りこうだから、こっちへ走ってくるよ。そうしてまたをくぐって逃げてしまうよ。なにしろ毛が油みたいにすべっこくて……?!?BR> こんなにたくさん珍しいことがあろうなど、それまでわたしは思ってもみなかった。海には、そのような五色の貝殻があるものなのか。西瓜には、こんな危険な経歴があるものなのか。わたしは西瓜といえば、果物屋に売っているものとばかり思っていた。
「おいらとこの砂地では、高潮の時(shí)分になると「跳ね魚(yú)」がいっぱい跳ねるよ。みんなかえるみたいな足が二本あって……?!?BR> ああ、閏土の心は神秘の寶庫(kù)で、わたしの遊び仲間とは大違いだ。こんなことはわたしの友達(dá)は何も知ってはいない。閏土が海辺にいる時(shí)、彼らはわたしと同様、高い塀に囲まれた中庭から四角な空を眺めているだけなのだ。
惜しくも正月は過(guò)ぎて、閏土は家へ帰らねばならなかった。別れがつらくて、わたしは聲をあげて泣いた。閏土も臺(tái)所の隅に隠れて、嫌がって泣いていたが、とうとう父親に連れてゆかれた。そのあと、彼は父親にことづけて、貝殻を一包みと、美しい鳥(niǎo)の羽を何本か屆けてくれた。わたしも一、二度何か贈(zèng)り物をしたが、それきり顔を合わす機(jī)會(huì)はなかった。
今、母の口から彼の名が出たので、この子供のころの思い出が、電光のように一挙によみがえり、わたしはやっと美しい故郷を見(jiàn)た思いがした。わたしはすぐこう答えた。
「そりゃいいな。で──今、どんな? ……?!?BR> 「どんなって……やっぱり、楽ではないようだが……?!工饯Υ黏à颇袱?、戸外へ目をやった。
「あの連中、また來(lái)ている。道具を買(mǎi)うという口実で、その辺にあるものを勝手に持っていくのさ。ちょっと見(jiàn)てくるからね?!?BR> 母は立ち上がって出ていった。外では、數(shù)人の女の聲がしていた。わたしは宏児をこちらへ呼んで、話(huà)し相手になってやった。字は書(shū)ける? よそへ行くの、うれしい? などなど。
「汽車(chē)に乗ってゆくの?」
「汽車(chē)に乗ってゆくんだよ。」
「お船は?」
「初めに、お船に乗って……?!?BR> 「まあまあ、こんなになって、ひげをこんなに生やして?!共灰猡摔蟾撙ぢ暏懁い?。
びっくりして頭を上げてみると、わたしの前には、ほお骨の出た、唇の薄い、五十がらみの女が立っていた。両手を腰にあてがい、スカートをはかないズボン姿で足を開(kāi)いて立ったところは、まるで製図用の腳の細(xì)いコンパスそっくりだった。
わたしはドキンとした。
「忘れたかね? よくだっこしてあげたものだが。」
ますますドキンとした。幸い、母が現(xiàn)れて口添えしてくれた。
「長(zhǎng)いこと家にいなかったから、見(jiàn)忘れてしまってね。おまえ、覚えているだろ。」
とわたしに向かって、「ほら、筋向かいの楊おばさん……豆腐屋の?!?BR> そうそう、思い出した。そういえば子供のころ、筋向かいの豆腐屋に、楊おばさんという人が一日じゅう座っていて、「豆腐屋小町」と呼ばれていたっけ。しかし、その人なら白粉を塗っていたし、ほお骨もこんなに出ていないし、唇もこんなに薄くはなかったはずだ。それに一日じゅう座っていたのだから、こんなコンパスのような姿勢(shì)は、見(jiàn)ようにも見(jiàn)られなかった。そのころうわさでは、彼女のおかげで豆腐屋は商売繁盛だとされた。たぶん年齢のせいだろうか、わたしはそういうことにさっぱり関心がなかった。そのため見(jiàn)忘れてしまったのである。ところがコンパスのほうでは、それがいかにも不服らしく、さげすむような表情を見(jiàn)せた。まるでフランス人のくせにナポレオンを知らず、アメリカ人のくせにワシントンを知らぬのをあざけるといった調(diào)子で、冷笑を浮かべながら、
「忘れたのかい? なにしろ身分のあるおかたは目が上を向いているからね……?!?BR> 「そんなわけじゃないよ……ぼくは……?!工铯郡筏悉嗓蓼筏?、立ち上がった。
「それならね、お聞きなさいよ、迅ちゃん。あんた、金持ちになったんでしょ。持ち運(yùn)びだって、重くて不便ですよ。こんなガラクタ道具、じゃまだから、あたしにくれてしまいなさいよ。あたしたち貧乏人には、けっこう役に立ちますからね?!?BR> 「ぼくは金持ちじゃないよ。これを売って、その金で……?!?BR> 「おやおや、まあまあ、知事様になっても金持ちじゃない? 現(xiàn)にお妾が三人もいて、お出ましは八人かきのかごで、それでも金持ちじゃない? フン、だまそうたって、そうはいきませんよ。」
返事のしようがないので、わたしは口を閉じたまま立っていた。
「ああ、ああ、金がたまれば財(cái)布のひもを締める。財(cái)布のひもを締めるからまたたまる……?!攻偿螗靴工?、ふくれっつらで背を向けると、ぶつぶつ言いながら、ゆっくりした足どりで出ていった。行きがけの駄賃に母の手袋をズボンの下へねじ込んで。
そのあと、近所にいる親戚が何人も訪(fǎng)ねてきた。その応対に追われながら、暇をみて荷ごしらえをした。そんなことで四、五日つぶれた。
ある寒い日の午後、わたしは食後の茶でくつろいでいた。表に人の気配がしたので、振り向いてみた。思わずアッと聲が出かかった。急いで立ち上がって迎えた。
來(lái)た客は閏土である。ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、わたしの記憶にある閏土とは似もつかなかった。背丈は倍ほどになり、昔のつやのいい丸顔は、今では黃ばんだ色に変わり、しかも深いしわがたたまれていた。目も、彼の父親がそうであったように、周りが赤くはれている。わたしは知っている。海辺で耕作する者は、一日じゅう潮風(fēng)に吹かれるせいで、よくこうなる。頭には古ぼけた毛織りの帽子、身には薄手の綿入れ一枚、全身ぶるぶる震えている。紙包みと長(zhǎng)いきせるを手に提げている。その手も、わたしの記憶にある血色のいい、まるまるした手ではなく、太い、節(jié)くれだった、しかもひび割れた、松の幹のような手である。
わたしは感激で胸がいっぱいになり、しかしどう口をきいたものやら思案がつかぬままに、ひと言、
「ああ、閏ちゃん──よく來(lái)たね……?!?BR> 続いて言いたいことが、あとからあとから、數(shù)珠つなぎになって出かかった。角鶏、跳ね魚(yú)、貝殻、チャー……だがそれらは、何かでせき止められたように、頭の中を駆けめぐるだけで、口からは出なかった。
彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現(xiàn)れた。唇が動(dòng)いたが、聲にはならなかった。最後に、うやうやしい態(tài)度に変わって、はっきりこう言った。
「だんな様! ……?!?BR> わたしは身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた。わたしは口がきけなかった。
彼は後ろを向いて、「水生、だんな様におじぎしな?!工妊预盲啤⒈摔伪长穗Lれていた子供を前へ出した。これぞまさしく三十年前の閏土であった。いくらかやせて、顔色が悪く、銀の首輪もしていない違いはあるけれども?!袱长欷宸幛巫婴扦搐钉い蓼?。世間へ出さぬものですから、おどおどしておりまして……?!?BR> 母と宏児が二階から降りてきた。話(huà)し聲を聞きつけたのだろう。
「ご隠居様、お手紙は早くにいただきました。全く、うれしくてたまりませんでした、だんな様がお帰りになると聞きまして……?!工乳c土は言った。
「まあ、なんだってそんな、他人行儀にするんだね。おまえたち、昔は兄弟の仲じゃないか。昔のように、迅ちゃん、でいいんだよ。」と母は、うれしそうに言った。
「めっそうな、ご隠居様、なんとも……とんでもないことでございます。あのころは子供で、なんのわきまえもなく……?!工饯筏皮蓼郡馑蚯挨顺訾筏皮袱丹护瑜Δ趣筏郡?、子供ははにかんで、父親の背にしがみついたままだった。
「これが水生? 五番めだね。知らない人ばかりだから、はにかむのも無(wú)理ない。宏児や、あちらで一緒に遊んでおやり?!工饶袱涎预盲?。
言われて宏児は、水生を誘い、水生もうれしそうに、そろって出ていった。母は閏土に席を勧めた。彼はしばらくためらったあと、ようやく腰を下ろした。長(zhǎng)ぎせるをテーブルに立てかけて、紙包みを差し出した。
「冬場(chǎng)は、ろくなものがございません。少しばかり、青豆の干したのですが、自分とこのですから、どうかだんな様に……?!?BR> わたしは、暮らし向きについて尋ねた。彼は首を振るばかりだった。
「とてもとても。今では六番めの子も役に立ちますが、それでも追っつけません……世間は物騒だし……どっちを向いても金は取られほうだい、きまりもなにも……作柄もよくございません。作った物を売りに行けば、何度も稅金を取られて、元は切れるし、そうかといって売らなければ、腐らせるばかりで……。」
首を振りどおしである。顔にはたくさんのしわがたたまれているが、まるで石像のように、そのしわは少しも動(dòng)かなかった??啶筏撙蚋肖袱悉筏皮?、それを言い表すすべがないように、しばらく沈黙し、それからきせるを取り上げて、黙々とたばこをふかした。
母が都合をきくと、家に用が多いから、明日は帰らねばならぬという。それに晝飯もまだと言うので、自分で臺(tái)所へ行って、飯をいためて食べるように勧めた。
彼が出ていったあと、母とわたしとは彼の境遇を思ってため息をついた。子だくさん、兇作、重い稅金、兵隊(duì)、匪賊、役人、地主、みんな寄ってたかって彼をいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ。母は、持っていかぬ品物はみんなくれてやろう、好きなように選ばせよう、とわたしに言った。
午後、彼は品物を選び出した。長(zhǎng)テーブル二個(gè)、いす四腳、香爐と燭臺(tái)一組み、大秤一本。そのほかわら灰もみんな欲しいと言った。(わたしたちのところでは、炊事の時(shí)わらを燃す。その灰は砂地の肥料になる。)わたしたちが旅立つ時(shí)來(lái)て船で運(yùn)ぶ、と言った。
夜はまた世間話(huà)をした。とりとめのない話(huà)ばかりだった。明くる日の朝、彼は水生を連れて帰っていった。
それからまた九日して、わたしたちの旅立ちの日になった。閏土は朝から來(lái)ていた。水生は連れずに、五歳になる女の子に船の番をさせていた。それぞれに一日じゅう忙しくて、もう話(huà)をする暇はなかった??亭舛啶盲?。見(jiàn)送りに來(lái)る者、品物を取りに來(lái)る者、見(jiàn)送りがてら品物を取りに來(lái)る者。夕方になって、わたしたちが船に乗り込むころには、この古い家にあった大小さまざまのガラクタ類(lèi)は、すっかり片づいていた。
船はひたすら前進(jìn)した。両岸の緑の山々は、たそがれの中で薄墨色に変わり、次次と船尾に消えた。
わたしと一緒に窓辺にもたれて、暮れてゆく外の景色を眺めていた宏児が、ふと問(wèn)いかけた。
「おじさん、ぼくたち、いつ帰ってくるの?」
「帰ってくる? どうしてまた、行きもしないうちに、帰るなんて考えたんだい?」
「だって、水生がぼくに、家へ遊びに來(lái)いって?!?BR> 大きな黒い目をみはって、彼はじっと考えこんでいた。
わたしも、わたしの母も、はっと胸をつかれた。そして話(huà)がまた閏土のことに戻った。母はこう語(yǔ)った。例の豆腐屋小町の楊おばさんは、わたしの家で片づけが始まってから、毎日必ずやってきたが、おととい、灰の山からわんや皿を十個(gè)あまり掘り出した。あれこれ議論の末、それは閏土が埋めておいたにちがいない、灰を運(yùn)ぶ時(shí)、一緒に持ち帰れるから、という結(jié)論になった。楊おばさんは、この発見(jiàn)を手柄顔に、「犬じらし」(これはわたしたちのところで鶏を飼うのに使う。木の板にさくを取り付けた道具で、中に食べ物を入れておくと、鶏は首を伸ばしてついばむことができるが、犬にはできないので、見(jiàn)てじれるだけである。)をつかんで飛ぶように走り去った。てん足用の底の高い靴で、よくもと思うほど速かったそうだ。
古い家はますます遠(yuǎn)くなり、故郷の山や水もますます遠(yuǎn)くなる。だが名殘惜しい気はしない。自分の周りに目に見(jiàn)えぬ高い壁があって、その中に自分だけ取り殘されたように、気がめいるだけである。西瓜畑の銀の首輪の小英雄の面影は、もとは鮮明このうえなかったのが、今では急にぼんやりしてしまった。これもたまらなく悲しい。
母と宏児とは寢入った。
わたしも橫になって、船の底に水のぶつかる音を聞きながら、今、自分は、自分の道を歩いているとわかった。思えばわたしと閏土との距離は全く遠(yuǎn)くなったが、若い世代は今でも心が通い合い、現(xiàn)に宏児は水生のことを慕っている。せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように……とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、わたしのように、無(wú)駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願(yuàn)わない。また閏土のように、打ちひしがれて心がまひする生活をともにすることも願(yuàn)わない。また他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活をともにすることも願(yuàn)わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を。
希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香爐と燭臺(tái)を所望した時(shí)、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ。
まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
我冒了嚴(yán)寒,回到相隔二千余里,別了二十余年的故鄉(xiāng)去。
時(shí)候既然是深冬;漸近故鄉(xiāng)時(shí),天氣又陰晦了,冷風(fēng)吹進(jìn)船艙中,嗚嗚的響,從蓬隙向外一望,蒼黃的天底下,遠(yuǎn)近橫著幾個(gè)蕭索的荒村,沒(méi)有一些活氣。我的心禁不住悲涼起來(lái)了。阿!這不是我二十年來(lái)時(shí)時(shí)記得的故鄉(xiāng)?
我所記得的故鄉(xiāng)全不如此。我的故鄉(xiāng)好得多了。但要我記起他的美麗,說(shuō)出他的佳處來(lái),卻又沒(méi)有影像,沒(méi)有言辭了。仿佛也就如此。于是我自己解釋說(shuō):故鄉(xiāng)本也如此,——雖然沒(méi)有進(jìn)步,也未必有如我所感的悲涼,這只是我自己心情的改變罷了,因?yàn)槲疫@次回鄉(xiāng),本沒(méi)有什么好心緒。
我這次是專(zhuān)為了別他而來(lái)的。我們多年聚族而居的老屋,已經(jīng)公同賣(mài)給別姓了,交屋的期限,只在本年,所以必須趕在正月初一以前,永別了熟識(shí)的老屋,而且遠(yuǎn)離了熟識(shí)的故鄉(xiāng),搬家到我在謀食的異地去。
第二日清早晨我到了我家的門(mén)口了。瓦楞上許多枯草的斷莖當(dāng)風(fēng)抖著,正在說(shuō)明這老屋難免易主的原因。幾房的本家大約已經(jīng)搬走了,所以很寂靜。我到了自家的房外,我的母親早已迎著出來(lái)了,接著便飛出了八歲的侄兒宏兒。
我的母親很高興,但也藏著許多凄涼的神情,教我坐下,歇息,喝茶,且不談搬家的事。宏兒沒(méi)有見(jiàn)過(guò)我,遠(yuǎn)遠(yuǎn)的對(duì)面站著只是看。
但我們終于談到搬家的事。我說(shuō)外間的寓所已經(jīng)租定了,又買(mǎi)了幾件家具,此外須將家里所有的木器賣(mài)去,再去增添。母親也說(shuō)好,而且行李也略已齊集,木器不便搬運(yùn)的,也小半賣(mài)去了,只是收不起錢(qián)來(lái)。
“你休息一兩天,去拜望親戚本家一回,我們便可以走了。”母親說(shuō)。
“是的?!?BR> “還有閏土,他每到我家來(lái)時(shí),總問(wèn)起你,很想見(jiàn)你一回面。我已經(jīng)將你到家的大約日期通知他,他也許就要來(lái)了?!?BR> 這時(shí)候,我的腦里忽然閃出一幅神異的圖畫(huà)來(lái):深藍(lán)的天空中掛著一輪金黃的圓月,下面是海邊的沙地,都種著一望無(wú)際的碧綠的西瓜,其間有一個(gè)十一二歲的少年,項(xiàng)帶銀圈,手捏一柄鋼叉,向一匹猹盡力的刺去,那猹卻將身一扭,反從他的胯下逃走了。
這少年便是閏土。我認(rèn)識(shí)他時(shí),也不過(guò)十多歲,離現(xiàn)在將有三十年了;那時(shí)我的父親還在世,家景也好,我正是一個(gè)少爺。那一年,我家是一件大祭祀的值年。這祭祀,說(shuō)是三十多年才能輪到一回,所以很鄭重;正月里供祖像,供品很多,祭器很講究,拜的人也很多,祭器也很要防偷去。我家只有一個(gè)忙月(我們這里給人做工的分三種:整年給一定人家做工的叫長(zhǎng)工;按日給人做工的叫短工;自己也種地,只在過(guò)年過(guò)節(jié)以及收租時(shí)候來(lái)給一定人家做工的稱(chēng)忙月),忙不過(guò)來(lái),他便對(duì)父親說(shuō),可以叫他的兒子閏土來(lái)管祭器的。
我的父親允許了;我也很高興,因?yàn)槲以缏?tīng)到閏土這名字,而且知道他和我仿佛年紀(jì),閏月生的,五行缺土,所以他的父親叫他閏土。他是能裝弶捉小鳥(niǎo)雀的。
我于是日日盼望新年,新年到,閏土也就到了。好容易到了年末,有一日,母親告訴我,閏土來(lái)了,我便飛跑的去看。他正在廚房里,紫色的圓臉,頭戴一頂小氈帽,頸上套一個(gè)明晃晃的銀項(xiàng)圈,這可見(jiàn)他的父親十分愛(ài)他,怕他死去,所以在神佛面前許下愿心,用圈子將他套住了。他見(jiàn)人很怕羞,只是不怕我,沒(méi)有旁人的時(shí)候,便和我說(shuō)話(huà),于是不到半日,我們便熟識(shí)了。
我們那時(shí)候不知道談些什么,只記得閏土很高興,說(shuō)是上城之后,見(jiàn)了許多沒(méi)有見(jiàn)過(guò)的東西。
第二日,我便要他捕鳥(niǎo)。他說(shuō): “這不能。須大雪下了才好。我們沙地上,下了雪,我掃出一塊空地來(lái),用短棒支起一個(gè)大竹匾,撒下秕谷,看鳥(niǎo)雀來(lái)吃時(shí),我遠(yuǎn)遠(yuǎn)地將縛在棒上的繩子只一拉,那鳥(niǎo)雀就罩在竹匾下了。什么都有:稻雞,角雞,鵓鴣,藍(lán)背……”
我于是又很盼望下雪。
閏土又對(duì)我說(shuō): “現(xiàn)在太冷,你夏天到我們這里來(lái)。我們?nèi)绽锏胶_厯熵悮と?,紅的綠的都有,鬼見(jiàn)怕也有,觀音手也有。晚上我和爹管西瓜去,你也去?!?BR> “管賊么?”
“不是。走路的人口渴了摘一個(gè)瓜吃,我們這里是不算偷的。要管的是獾豬,刺猬,猹。月亮底下,你聽(tīng),啦啦的響了,猹在咬瓜了。你便捏了胡叉,輕輕地走去……”
我那時(shí)并不知道這所謂猹的是怎么一件東西——便是現(xiàn)在也沒(méi)有知道——只是無(wú)端的覺(jué)得狀如小狗而很兇猛。
“他不咬人么?”
“有胡叉呢。走到了,看見(jiàn)猹了,你便刺。這畜生很伶俐,倒向你奔來(lái),反從胯下竄了。他的皮毛是油一般的滑……”
我素不知道天下有這許多新鮮事:海邊有如許五色的貝殼;西瓜有這樣危險(xiǎn)的經(jīng)歷,我先前單知道他在水果電里出賣(mài)罷了。
“我們沙地里,潮汛要來(lái)的時(shí)候,就有許多跳魚(yú)兒只是跳,都有青蛙似的兩個(gè)腳……”
阿!閏土的心里有無(wú)窮無(wú)盡的希奇的事,都是我往常的朋友所不知道的。他們不知道一些事,閏土在海邊時(shí),他們都和我一樣只看見(jiàn)院子里高墻上的四角的天空。
可惜正月過(guò)去了,閏土須回家里去,我急得大哭,他也躲到廚房里,哭著不肯出門(mén),但終于被他父親帶走了。他后來(lái)還托他的父親帶給我一包貝殼和幾支很好看的鳥(niǎo)毛,我也曾送他一兩次東西,但從此沒(méi)有再見(jiàn)面。
現(xiàn)在我的母親提起了他,我這兒時(shí)的記憶,忽而全都閃電似的蘇生過(guò)來(lái),似乎看到了我的美麗的故鄉(xiāng)了。我應(yīng)聲說(shuō): “這好極!他,——怎樣?……”
“他?……他景況也很不如意……”母親說(shuō)著,便向房外看,“這些人又來(lái)了。說(shuō)是買(mǎi)木器,順手也就隨便拿走的,我得去看看?!?BR> 母親站起身,出去了。門(mén)外有幾個(gè)女人的聲音。我便招宏兒走近面前,和他閑話(huà):?jiǎn)査蓵?huì)寫(xiě)字,可愿意出門(mén)。
“我們坐火車(chē)去么?”
“我們坐火車(chē)去?!?BR> “船呢?”
“先坐船,……”
“哈!這模樣了!胡子這么長(zhǎng)了!”一種尖利的怪聲突然大叫起來(lái)。
我吃了一嚇,趕忙抬起頭,卻見(jiàn)一個(gè)凸顴骨,薄嘴唇,五十歲上下的女人站在我面前,兩手搭在髀間,沒(méi)有系裙,張著兩腳,正像一個(gè)畫(huà)圖儀器里細(xì)腳伶仃的圓規(guī)。
我愕然了。
“不認(rèn)識(shí)了么?我還抱過(guò)你咧!”
我愈加愕然了。幸而我的母親也就進(jìn)來(lái),從旁說(shuō): “他多年出門(mén),統(tǒng)忘卻了。你該記得罷,”便向著我說(shuō),“這是斜對(duì)門(mén)的楊二嫂,……開(kāi)豆腐店的?!?BR> 哦,我記得了。我孩子時(shí)候,在斜對(duì)門(mén)的豆腐店里確乎終日坐著一個(gè)楊二嫂,人都叫伊“豆腐西施”。但是擦著白粉,顴骨沒(méi)有這么高,嘴唇也沒(méi)有這么薄,而且終日坐著,我也從沒(méi)有見(jiàn)過(guò)這圓規(guī)式的姿勢(shì)。那時(shí)人說(shuō):因?yàn)橐?,這豆腐店的買(mǎi)賣(mài)非常好。但這大約因?yàn)槟挲g的關(guān)系,我卻并未蒙著一毫感化,所以竟完全忘卻了。然而圓規(guī)很不平,顯出鄙夷的神色,仿佛嗤笑法國(guó)人不知道拿破侖,美國(guó)人不知道華盛頓似的,冷笑說(shuō): “忘了?這真是貴人眼高……”
“那有這事……我……”我惶恐著,站起來(lái)說(shuō)。
“那么,我對(duì)你說(shuō)。迅哥兒,你闊了,搬動(dòng)又笨重,你還要什么這些破爛木器,讓我拿去罷。我們小戶(hù)人家,用得著。”
“我并沒(méi)有闊哩。我須賣(mài)了這些,再去……”
“阿呀呀,你放了道臺(tái)了,還說(shuō)不闊?你現(xiàn)在有三房姨太太;出門(mén)便是八抬的大轎,還說(shuō)不闊?嚇,什么都瞞不過(guò)我?!?BR> 我知道無(wú)話(huà)可說(shuō)了,便閉了口,默默的站著。
“阿呀阿呀,真是愈有錢(qián),便愈是一毫不肯放松,愈是一毫不肯放松,便愈有錢(qián)……”圓規(guī)一面憤憤的回轉(zhuǎn)身,一面絮絮的說(shuō),慢慢向外走,順便將我母親的一副手套塞在褲腰里,出去了。
此后又有近處的本家和親戚來(lái)訪(fǎng)問(wèn)我。我一面應(yīng)酬,偷空便收拾些行李,這樣的過(guò)了三四天。
一日是天氣很冷的午后,我吃過(guò)午飯,坐著喝茶,覺(jué)得外面有人進(jìn)來(lái)了,便回頭去看。我看時(shí),不由的非常出驚,慌忙站起身,迎著走去。
這來(lái)的便是閏土。雖然我一見(jiàn)便知道是閏土,但又不是我這記憶上的閏土了。他身材增加了一倍;先前的紫色的圓臉,已經(jīng)變作灰黃,而且加上了很深的皺紋;眼睛也像他父親一樣,周?chē)寄[得通紅,這我知道,在海邊種地的人,終日吹著海風(fēng),大抵是這樣的。他頭上是一頂破氈帽,身上只一件極薄的棉衣,渾身瑟索著;手里提著一個(gè)紙包和一支長(zhǎng)煙管,那手也不是我所記得的紅活圓實(shí)的手,卻又粗又笨而且開(kāi)裂,像是松樹(shù)皮了。
我這時(shí)很興奮,但不知道怎么說(shuō)才好,只是說(shuō): “阿!閏土哥,——你來(lái)了?……”
我接著便有許多話(huà),想要連珠一般涌出:角雞,跳魚(yú)兒,貝殼,猹,……但又總覺(jué)得被什么擋著似的,單在腦里面回旋,吐不出口外去。
他站住了,臉上現(xiàn)出歡喜和凄涼的神情;動(dòng)著嘴唇,卻沒(méi)有作聲。他的態(tài)度終于恭敬起來(lái)了,分明的叫道: “老爺!……”
我似乎打了一個(gè)寒噤;我就知道,我們之間已經(jīng)隔了一層可悲的厚障壁了。我也說(shuō)不出話(huà)。
他回過(guò)頭去說(shuō),“水生,給老爺磕頭。”便拖出躲在背后的孩子來(lái),這正是一個(gè)廿年前的閏土,只是黃瘦些,頸子上沒(méi)有銀圈罷了。“這是第五個(gè)孩子,沒(méi)有見(jiàn)過(guò)世面,躲躲閃閃……”
母親和宏兒下樓來(lái)了,他們大約也聽(tīng)到了聲音。
“老太太。信是早收到了。我實(shí)在喜歡的不得了,知道老爺回來(lái)……”閏土說(shuō)。
“阿,你怎的這樣客氣起來(lái)。你們先前不是哥弟稱(chēng)呼么?還是照舊:迅哥兒?!蹦赣H高興的說(shuō)。
“阿呀,老太太真是……這成什么規(guī)矩。那時(shí)是孩子,不懂事……”閏土說(shuō)著,又叫水生上來(lái)打拱,那孩子卻害羞,緊緊的只貼在他背后。
“他就是水生?第五個(gè)?都是生人,怕生也難怪的;還是宏兒和他去走走?!蹦赣H說(shuō)。
宏兒聽(tīng)得這話(huà),便來(lái)招水生,水生卻松松爽爽同他一路出去了。母親叫閏土坐,他遲疑了一回,終于就了坐,將長(zhǎng)煙管靠在桌旁,遞過(guò)紙包來(lái),說(shuō):“冬天沒(méi)有什么東西了。這一點(diǎn)干青豆倒是自家曬在那里的,請(qǐng)老爺……”
我問(wèn)問(wèn)他的景況。他只是搖頭。
“非常難。第六個(gè)孩子也會(huì)幫忙了,卻總是吃不夠……又不太平……什么地方都要錢(qián),沒(méi)有規(guī)定……收成又壞。種出東西來(lái),挑去賣(mài),總要捐幾回錢(qián),折了本;不去賣(mài),又只能爛掉……”
他只是搖頭;臉上雖然刻著許多皺紋,卻全然不動(dòng),仿佛石像一般。他大約只是覺(jué)得苦,卻又形容不出,沉默了片時(shí),便拿起煙管來(lái)默默的吸煙了。
母親問(wèn)他,知道他的家里事務(wù)忙,明天便得回去;又沒(méi)有吃過(guò)午飯,便叫他自己到廚下炒飯吃去。
他出去了;母親和我都嘆息他的景況:多子,饑荒,苛稅,兵,匪,官,紳,都苦得他像一個(gè)木偶人了。母親對(duì)我說(shuō),凡是不必搬走的東西,盡可以送他,可以聽(tīng)他自己去揀擇。
下午,他揀好了幾件東西:兩條長(zhǎng)桌,四個(gè)椅子,一副香爐和燭臺(tái),一桿抬秤。他又要所有的草灰(我們這里煮飯是燒稻草的,那灰,可以做沙地的肥料),待我們啟程的時(shí)候,他用船來(lái)載去。
夜間,我們又談些閑天,都是無(wú)關(guān)緊要的話(huà);第二天早晨,他就領(lǐng)了水生回去了。
又過(guò)了九日,是我們啟程的日期。閏土早晨便到了,水生沒(méi)有同來(lái),卻只帶著一個(gè)五歲的女兒管船只。我們終日很忙碌,再?zèng)]有談天的工夫。來(lái)客也不少,有送行的,有拿東西的,有送行兼拿東西的。待到傍晚我們上船的時(shí)候,這老屋里的所有破舊大小粗細(xì)東西,已經(jīng)一掃而空了。
我們的船向前走,兩岸的青山在黃昏中,都裝成了深黛顏色,連著退向船后梢去。
宏兒和我靠著船窗,同看外面模糊的風(fēng)景,他忽然問(wèn)道: “大伯!我們什么時(shí)候回來(lái)?”
“回來(lái)?你怎么還沒(méi)有走就想回來(lái)了?!?BR> “可是,水生約我到他家玩去咧……”他睜著大的黑眼睛,癡癡的想。
我和母親也都有些惘然,于是又提起閏土來(lái)。母親說(shuō),那豆腐西施的楊二嫂,自從我家收拾行李以來(lái),本是每日必到的,前天伊在灰堆里,掏出十多個(gè)碗碟來(lái),議論之后,便定說(shuō)是閏土埋著的,他可以在運(yùn)灰的時(shí)候,一齊搬回家里去;楊二嫂發(fā)見(jiàn)了這件事,自己很以為功,便拿了那狗氣殺(這是我們這里養(yǎng)雞的器具,木盤(pán)上面有著柵欄,內(nèi)盛食料,雞可以伸進(jìn)頸子去啄,狗卻不能,只能看著氣死),飛也似的跑了,虧伊裝著這么高低的小腳,竟跑得這樣快。
老屋離我愈遠(yuǎn)了;故鄉(xiāng)的山水也都漸漸遠(yuǎn)離了我,但我卻并不感到怎樣的留戀。我只覺(jué)得我四面有看不見(jiàn)的高墻,將我隔成孤身,使我非常氣悶;那西瓜地上的銀項(xiàng)圈的小英雄的影像,我本來(lái)十分清楚,現(xiàn)在卻忽地模糊了,又使我非常的悲哀。
母親和宏兒都睡著了。
我躺著,聽(tīng)船底潺潺的水聲,知道我在走我的路。我想:我竟與閏土隔絕到這地步了,但我們的后輩還是一氣,宏兒不是正在想念水生么。我希望他們不再像我,又大家隔膜起來(lái)……然而我又不愿意他們因?yàn)橐粴?,都如我的辛苦展轉(zhuǎn)而生活,也不愿意他們都如閏土的辛苦麻木而生活,也不愿意都如別人的辛苦恣睢而生活。他們應(yīng)該有新的生活,為我們所未經(jīng)生活過(guò)的。
我想到希望,忽然害怕起來(lái)了。閏土要香爐和燭臺(tái)的時(shí)候,我還暗地里笑他,以為他總是崇拜偶像,什么時(shí)候都不忘卻?,F(xiàn)在我所謂希望,不也是我自己手制的偶像么?只是他的愿望切近,我的愿望茫遠(yuǎn)罷了。
我在朦朧中,眼前展開(kāi)一片海邊碧綠的沙地來(lái),上面深藍(lán)的天空中掛著一輪金黃的圓月。我想:希望本是無(wú)所謂有,無(wú)所謂無(wú)的。這正如地上的路;其實(shí)地上本沒(méi)有路,走的人多了,也便成了路。
一九二一年一月。