鼻(芥川龍之介日語(yǔ)小說(shuō))2

字號(hào):

內(nèi)供は、いつものように、鼻などは気にかけないと云う風(fēng)をして、わざとその法もすぐにやって見(jiàn)ようとは云わずにいた。そうして一方では、気軽な口調(diào)で、食事の度毎に、弟子の手?jǐn)?shù)をかけるのが、心苦しいと云うような事を云った。內(nèi)心では勿論弟子の僧が、自分を説伏(ときふ)せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、內(nèi)供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、內(nèi)供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強(qiáng)くこの弟子の僧の同情を動(dòng)かしたのであろう。弟子の僧は、內(nèi)供の予期通り、口を極めて、この法を試みる事を勧め出した。そうして、內(nèi)供自身もまた、その予期通り、結(jié)局この熱心な勧告に聴従(ちょうじゅう)する事になった。
    その法と云うのは、ただ、湯で鼻を茹(ゆ)でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡(jiǎn)単なものであった。
    湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提(ひさげ)に入れて、湯屋から汲んで來(lái)た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷(やけど)する懼(おそれ)がある。そこで折敷(おしき)へ穴をあけて、それを提の蓋(ふた)にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸(ひた)しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。
    ――もう茹(ゆだ)った時(shí)分でござろう。
    內(nèi)供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰(shuí)も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸(む)されて、蚤(のみ)の食ったようにむず癢(がゆ)い。
    弟子の僧は、內(nèi)供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。內(nèi)供は橫になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下(うえした)に動(dòng)くのを眼の前に見(jiàn)ているのである。弟子の僧は、時(shí)々気の毒そうな顔をして、內(nèi)供の禿(は)げ頭を見(jiàn)下しながら、こんな事を云った。
    ――痛うはござらぬかな。醫(yī)師は責(zé)(せ)めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。
    內(nèi)供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻を踏まれているので思うように首が動(dòng)かない。そこで、上眼(うわめ)を使って、弟子の僧の足に皹(あかぎれ)のきれているのを眺めながら、腹を立てたような聲で、
    ――痛うはないて。
    と答えた。実際鼻はむず癢い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。
    しばらく踏んでいると、やがて、粟粒(あわつぶ)のようなものが、鼻へ出來(lái)はじめた。云わば毛をむしった小鳥(niǎo)をそっくり丸炙(まるやき)にしたような形である。弟子の僧はこれを見(jiàn)ると、足を止めて獨(dú)り言のようにこう云った。
    ――これを鑷子(けぬき)でぬけと申す事でござった。
    內(nèi)供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。內(nèi)供は、信用しない醫(yī)者の手術(shù)をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子(けぬき)で脂(あぶら)をとるのを眺めていた。脂は、鳥(niǎo)の羽の莖(くき)のような形をして、四分ばかりの長(zhǎng)さにぬけるのである。
    やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
    ――もう一度、これを茹でればようござる。
    と云った。
    內(nèi)供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の云うなりになっていた。
    さて二度目に茹でた鼻を出して見(jiàn)ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻と大した変りはない。內(nèi)供はその短くなった鼻を撫(な)でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極(きま)りが悪るそうにおずおず覗(のぞ)いて見(jiàn)た。
    鼻は――あの顋(あご)の下まで下っていた鼻は、ほとんど噓のように萎縮して、今は僅(わずか)に上唇の上で意気地なく殘喘(ざんぜん)を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時(shí)の痕(あと)であろう。こうなれば、もう誰(shuí)も哂(わら)うものはないにちがいない。――鏡の中にある內(nèi)供の顔は、鏡の外にある內(nèi)供の顔を見(jiàn)て、満足そうに眼をしばたたいた。
    しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長(zhǎng)くなりはしないかと云う不安があった。そこで內(nèi)供は誦経(ずぎょう)する時(shí)にも、食事をする時(shí)にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見(jiàn)た。が、鼻は行儀(ぎょうぎ)よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って來(lái)る景色もない。それから一晩寢てあくる日早く眼がさめると內(nèi)供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見(jiàn)た。鼻は依然として短い。內(nèi)供はそこで、幾年にもなく、法華経(ほけきょう)書(shū)寫(xiě)の功を積んだ時(shí)のような、のびのびした気分になった。
    所が二三日たつ中に、內(nèi)供は意外な事実を発見(jiàn)した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍(さむらい)が、前よりも一層可笑(おか)しそうな顔をして、話も碌々(ろくろく)せずに、じろじろ內(nèi)供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、內(nèi)供の鼻を粥(かゆ)の中へ落した事のある中童子(ちゅうどうじ)なぞは、講堂の外で內(nèi)供と行きちがった時(shí)に、始めは、下を向いて可笑(おか)しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見(jiàn)えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法師(しもほうし)たちが、面と向っている間だけは、慎(つつし)んで聞いていても、內(nèi)供が後(うしろ)さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。