「淡交」平成八年五月號(hào)「巻頭言」より
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さて、海外へ出て外國(guó)の方にお茶の心を教えることの多い私ですが、先頃もフィリピンより招かれて、ラモス大統(tǒng)領(lǐng)御夫妻に親しく一碗をおすすめし、いろいろと歓談交流をさせていただきました。これは、常に提唱しております「一碗からピースフルネスを」の実踐の一環(huán)ですが、こうして海外へ出ました折にいつも思いますことは、六祖慧能(えのう)禪師の言われた「人に南北ありといえども、仏性に南北なし」という言葉であります。
達(dá)磨大師を初祖とする禪宗の六祖となられた慧能禪師は、もとは炭焼きを業(yè)とする無學(xué)の青年でした。あるとき、薪や炭を売りに山を降り、街へ出て、とある家の前に立っていますと、読経の聲が聞こえて來ました。もとより、その意味などはこの炭焼きの青年には分かろうはずもありません。しかし、その読経の響きに何か心ひかれるものをおぼえたので、その家の老婆に、お経のことを?qū)い亭蓼埂?BR> そこで慧能は、いま聞こえているお経が「金剛経」であり、慧能の琴線(きんせん)にふれた一節(jié)が「応無所住而生其心(おうむしょじゅにしょうごしん)」(応に住する所無うして、其の心を生ずべし- まさにじゅうするところなうして、そのこころをしょうずべし)という語(yǔ)であること、そしてその意味を知りたければ、五祖弘忍禪師のところへ行けばよいことを教えられました。
こうして慧能は弘忍禪師を?qū)い亭蓼筏郡?、なかなか?jiǎn)単には禪門には入れません。これは現(xiàn)在も同じで、私も経験がありますから、よく理解できます?;勰埭狻⑻繜啢咸繜啢椁筏饯悄氦椁?、ここはお前の來るようなところではない、とさんざんに言われ、上にあげてさえもらえません。そこで慧能の発したのが、先に述べた言葉なのです。
人に南北ありといえども、仏性に南北なし
「南に生まれた人もいれば、北で生まれた人もいる。しかし、生まれたときから仏性を持っている人間を、なぜ南だ北だといって區(qū)別するのだ」。弘忍禪師は、慧能のこの一語(yǔ)に驚いて入門を許し、のちには自分の後を慧能にゆだねるのです。
人間を、生まれた國(guó)や肌の色で區(qū)別することの愚かしさが、ここに喝破されています。
私たちは、茶道を通じて人を敬い、人と和することを?qū)g踐しているわけですが、一方、そうした行為によって、自分自身も磨かれ、また自己心が啓発されてくのです。一碗を通しての區(qū)別のない真の平和、それを?qū)g現(xiàn)させる茶道でありたいと念じています。
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さて、海外へ出て外國(guó)の方にお茶の心を教えることの多い私ですが、先頃もフィリピンより招かれて、ラモス大統(tǒng)領(lǐng)御夫妻に親しく一碗をおすすめし、いろいろと歓談交流をさせていただきました。これは、常に提唱しております「一碗からピースフルネスを」の実踐の一環(huán)ですが、こうして海外へ出ました折にいつも思いますことは、六祖慧能(えのう)禪師の言われた「人に南北ありといえども、仏性に南北なし」という言葉であります。
達(dá)磨大師を初祖とする禪宗の六祖となられた慧能禪師は、もとは炭焼きを業(yè)とする無學(xué)の青年でした。あるとき、薪や炭を売りに山を降り、街へ出て、とある家の前に立っていますと、読経の聲が聞こえて來ました。もとより、その意味などはこの炭焼きの青年には分かろうはずもありません。しかし、その読経の響きに何か心ひかれるものをおぼえたので、その家の老婆に、お経のことを?qū)い亭蓼埂?BR> そこで慧能は、いま聞こえているお経が「金剛経」であり、慧能の琴線(きんせん)にふれた一節(jié)が「応無所住而生其心(おうむしょじゅにしょうごしん)」(応に住する所無うして、其の心を生ずべし- まさにじゅうするところなうして、そのこころをしょうずべし)という語(yǔ)であること、そしてその意味を知りたければ、五祖弘忍禪師のところへ行けばよいことを教えられました。
こうして慧能は弘忍禪師を?qū)い亭蓼筏郡?、なかなか?jiǎn)単には禪門には入れません。これは現(xiàn)在も同じで、私も経験がありますから、よく理解できます?;勰埭狻⑻繜啢咸繜啢椁筏饯悄氦椁?、ここはお前の來るようなところではない、とさんざんに言われ、上にあげてさえもらえません。そこで慧能の発したのが、先に述べた言葉なのです。
人に南北ありといえども、仏性に南北なし
「南に生まれた人もいれば、北で生まれた人もいる。しかし、生まれたときから仏性を持っている人間を、なぜ南だ北だといって區(qū)別するのだ」。弘忍禪師は、慧能のこの一語(yǔ)に驚いて入門を許し、のちには自分の後を慧能にゆだねるのです。
人間を、生まれた國(guó)や肌の色で區(qū)別することの愚かしさが、ここに喝破されています。
私たちは、茶道を通じて人を敬い、人と和することを?qū)g踐しているわけですが、一方、そうした行為によって、自分自身も磨かれ、また自己心が啓発されてくのです。一碗を通しての區(qū)別のない真の平和、それを?qū)g現(xiàn)させる茶道でありたいと念じています。