日語閱讀:流行を創(chuàng)る人―小室哲哉

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97 年の小室哲哉は作曲家としてシングルを1160萬枚以上売り、2位の伊秩弘將(SPEEDをプロデュース)の約400萬枚を大きく引き離し94年以來四年連続で作詞、作曲部門で第1位となった(オリコン調(diào)べ)。96年の納稅額も、蕓能人ではなく全體で第4位(推定収入約20億円)という凄まじさである。
    小室哲哉は1958年11月27日、東京生まれ。3才からバイオリンを始め、クラシックの英才教育を受け、17才からプロミュージシャンとして活動。上田正樹、バウワウ、大江千里など、様々なアーティストのレコーディングやライヴに參加。1984年、TM&NETWORKというグループを率いて、現(xiàn)在はglobeのメンバーとしてのほか、プロデューサーとして等ワールドワイドに活動中
    「世間に流れるヒット曲の聴き方を変えさせた」とも言える、音楽プロデューサーとしての小室哲哉の存在。とある聴き慣れない曲が流れてきた時(shí)、「誰が唄ってるの?」というのをまず気にする。そして、次には「誰が創(chuàng)ったの?」と、作詞や作曲、編曲(アレンジ)まで気にさせるようになっている今日このごろ。こういう聴き方も一種の「流行」になるとすれば、その流れを作ったハシリは小室哲哉でしょう。
    これまでの小室哲哉の音楽活動の中で「プロデュース」という言葉が最初に有名になったのは、trf(現(xiàn)TRF)の「EZ& DO&DANCE」の時(shí)だった。當(dāng)時(shí)は「誰が創(chuàng)ってるの?」ということまでは一般の人は気にしていなかったため、あまり話題にならなかったんだと思う。もちろん、他にも色んな音楽家さんたちもプロデュース活動をしていました。
    じゃ、何故突然「プロデューサー」という言葉が知れ渡り、小室哲哉がここまで大きくなっちゃったのかというと、あくまでも「売れること」に重點(diǎn)を置き「これから流行りそうなもの」をどんどん取り入れた“創(chuàng)作”が要因ではないか。それから、小室哲哉が「売れる」ために気にしていたことは、「カラオケでも唄いやすい」ということ。カラオケに行った時(shí)に、みんなが覚えて一緒に唄えるようなものを目指したのです。
    小室哲哉がレコードデビューしたのは、1984年4月?!窽M& NETWORK」という3人組みで、メンバーは小室哲哉(Keyboard)のほかに、宇都宮隆 (Vocal)と木根尚人(Guitar&Keyboard)、シングル「金曜日のライオン」、アルバム「Rainbow& Rainbow」を発表。當(dāng)時(shí)は「バンドなのにドラムがいないの?」という不思議な印象だったそうです。この「ドラムがいないバンド」というのも、最近ではあまり驚かれないことになっているけど、そのハシリともいえるかも知れない。
    その後、小室哲哉はTM& Networkの活動を進(jìn)めながらも、他のアーティストへの楽曲提供を行っていくようにもなりました。安室奈美恵、globe、華原朋美といった人気アーティストを擁し、そのプロデュース作品のレコード、CDは、日本國內(nèi)ですでに計(jì)一億枚以上が売れたという業(yè)界の寵児(ちょうじ)的存在。
    今までに色んな企畫を成功させたり、失敗させたりしてきた小室哲哉だけど、ここ數(shù)年ではレコード大賞の常連さんとなり、98年にはついに自身の屬するグループ(globe)で大賞を受賞するにいたりました。シンセを使った楽曲を、ここまで一般的にさせ、現(xiàn)在売り出し中の若手ミュージシャンの手本とまでなってしまった小室哲哉の音楽は、例え「非難」は受けても「否定」はできないはずです!だって現(xiàn)実にこれだけ評価されているのだものである。