日語閱讀:長谷川町子

字號:

TVアニメの超(ちょう)長壽番組(ちょうじゅばんぐみ)「サザエさん」の原作者(げんさくじゃ)、長谷川町子(はせがわまちこ)さんは1920年1月30日、佐賀県(さがけん)多久市(たくし)で生まれました。
    二歳のころから絵を描くことが好きだった。父。勇吉(ゆうきち)の事業(yè)開業(yè)(じぎょうかいぎょう)にともない、福岡市(ふくおかし)春吉に転居(てんきょ)しました。1932年、福岡県立福岡高等女學校(現(xiàn)在の福岡中央高校)に入學しました。1934年父が亡くなり、叔父を頼って東京の山脇(やまわき)高等女學校2年に編入(へんにゅう)し、このころ「のらくろ」で有名だった漫畫家(まんがか)。田河水泡(たがわすいほう)に弟子(でし)入りました。デビュー作は「貍(たぬき)のお面(めん)」でした。
    「サザエさん」、「いじわる婆さん」以外の作品としては「いじわる看護婦(かんごふ)さん」、「エプロンおばさん」などがあります。
    「サザエさん」は町子さんが浜辺(はまべ)を散歩(さんぽ)していたときに著想(ちゃくそう)を得たものとされ、最初は福岡の今はなき「夕刊フクニチ」に 1946年から連載(れんさい)されていましたが、夕刊フクニチの売り上げは順調(diào)(じゅんちょう)で「サザエさん」人気も高まっていった。1949年に朝日新聞が「サザエさん」に目をつけ、朝日新聞紙上での連載が始りました。最初、夕刊(ゆうかん)でしたが1951年から朝刊(ちょうかん)に移り、そして朝刊社會面(しゃかいめん)の目玉(めだま)として全國的な人気者となっていく。1974年2月「フジ三太郎」にバトンタッチして終了しました。朝日新聞の掲載分だけでも25年間の長期連載でした。
    連載漫畫を頼まれた時のことを長谷川町子はつぎのように語っている。
    「主人公はおてんば娘と、きめましたが、家族(かぞく)構(gòu)成(こうせい)にまよっていました。病気(びょうき)療養(yǎng)中(りょうようちゅう)の妹は順調(diào)(じゅんちょう)に回復 (かいふく)して、海岸(かいがん)を散歩するまでになりました。私は毎日いっしょについて歩き、そんなわけで登場人物がみんな海産物(かいさんぶつ)になったわけです?!?BR>    長谷川は日々のメモからネタを拾い「サザエさん」を通して戦後(せんご)の生活文化(せいかつぶんか)を描きとおした。その間、サザエさん一家も増え、夫のマスオさんとの間にタラちゃんが生まれて三世代家族の展開となっていった。
    実際の長谷川町子の家族は父親を早く失い、母、姉、妹、町子だけの女だけの家族だった。しかしながら磯野ナミヘイ、マスオ、カツオまで実によく男性の世界が観察(かんさつ)されている。
    アニメ「サザエさん」が生まれたのは、1969年10月5日、フジテレビで第1回が放送(ほうそう)されたのが始まり、現(xiàn)在まで30年間放映(ほうえい) され続け、そのテーマ曲はいまだにヒット。ランキングの上位(じょうい)にある、とんでもないロングセラー曲です。番組(ばんぐみ)開始(かいし)當初 (とうしょ)は「ドタバタ喜劇」の色合いが濃く、畫風(がふう)も現(xiàn)在のものとはかなり異なっていました。
    1999年には、放送開始30周年を迎え、放送回數(shù)も1500回、話數(shù)(わすう)(1回の放送で3話)にして、4600話を超えるまでになりました。
    視聴率(しちょうりつ)は、1979年9月16日に39.4%を記録(きろく)したのを(さいこう)に、現(xiàn)在も平均25%をキープし続けています。
    人気は安定して続いていましたが、1978年4月から11月まで、朝日新聞に絵文字構(gòu)成の自伝「サザエさんうちあけ話」を連載、新たなブームを作り出します。この物語(ものがたり)はNHKの朝の連続ドラマ「マー姉ちゃん」(出演:熊谷真美、藤田弓子、田中裕子)として1979年4月~9月に放映されました。
    1992年5月27日町子は死去(しきょ)。その死は三十五日の法要(四十九日だと3月にわたるため)が終わるまで伏せられていました。
    1992年7月28日、家庭漫畫を通じて戦後の日本社會に潤いと安らぎを與えた功として、國民栄譽賞受賞.