孔子の弟子にフク子賤という人があった。魯の哀公に仕えていて、亶父という地を治めることになったが、フク子賤は、魯公がそのうちつまらぬ小人輩の讒言に動(dòng)かされて、自分の思うような政治が行えなくなってはこまると思ったので、魯公の側(cè)近の役人二人をかりうけて、これと一緒に亶父に赴いた。任地について役人たちがみな挨拶をのべにやってきたところで、フク子賤は、魯公のもとからつれてきた二人の役人に書(shū)類(lèi)を書(shū)くことを命じた。
さて、二人のものが筆をとって書(shū)きはじめると、フク子賤はその傍らにあって二人の肘をちょいちょいとひくのであった。できあがった書(shū)類(lèi)は當(dāng)然字畫(huà)が曲ったり、ふるえたりしていた。しかしその書(shū)類(lèi)を受けとったフク子賤は、字がまずいといって二人を叱りつけたものであった。
そこで大いに憤慨した二人は、ただちにフク子賤に辭任を申しでた。するとフクは平然とこう答えた。
「貴公らの書(shū)はまったくなってないね、これじゃ使いものにはならないから、お望みならばさっそく帰りたまえ?!?BR> 亶父を去って帰りついた二人は、その足で魯公に謁見(jiàn)してこう報(bào)告した。
「フクさんのためには、働くどころか書(shū)きものすらできません?!?BR> 魯公がいぶかしんでその理由をきくと、
「フクさんは、いきなり私たちに書(shū)きものを命じましたが、はたから肘を押えたり、つついたりするので、字が思うように書(shū)けません。
それでいて、
『お前たちの書(shū)はへたくそで使いものにならない』
とさんざんお叱りになるのです。
同座していた役人たちも、みな笑っておりましたが、こんな馬鹿馬鹿しいことでは、私たちには働きようがありませんので帰って參りました?!?BR> というのであった。
これをきいた魯公は思わず嘆息していった。
「それは、私の不明をフク子賤が諫めようとしてのことだろう。
おそらく私は、フク子賤の政治のやりくちを亂して、思うさまの施政をやらせなかったことが、度々あったのに相違ない。
これを知らなければ大きな過(guò)ちをおかすところであった?!?BR> こうして、自分の信頼する側(cè)近を亶父につかわしてフク子賤にこう告げさせた。
「今からは、亶父の地は私の所有でなく、子の所有である。
亶父でなすべきことは、子の思う通りに行って下さい。
五年をへてからその報(bào)告をうけましょう?!?BR> フク子賤はつつしんでこれを承諾し、自分の思うままの施政にはげむことができた。
その後三年をへて、巫馬旗というものが、ボロボロの百姓姿に身をやつして亶父に赴いてその徳化のさまを見(jiàn)たが、夜、漁をするものがあって、せっかく網(wǎng)にかかった魚(yú)をまた河に放しているところに出會(huì)った。
不思議に思った巫は、その漁師にたずねた。
「漁をやっているのに、せっかくの獲物をなんで放しなさるのかね?」
「フク子賤さまが、小さいうちに魚(yú)をとってしまうのは、みんなのためにならんとおっしゃるだでな。
小さい魚(yú)がかかれば放してやるまでだよ?!?BR> という返事であった。
巫は大いにその治政に感嘆させられたということである。
これは、「孔子家語(yǔ)」と「呂氏春秋」に見(jiàn)える話であるが、ここでは「呂氏春秋」の「審応篇」によった。
(?孔子家語(yǔ)?では亶父は単父となっている)
掣肘とは、この話にみられる通り、人の肘を制約してその動(dòng)きを束縛すること、他人の自由を制すること、他人の仕事に邪魔をするという意味をもっている。
さて、二人のものが筆をとって書(shū)きはじめると、フク子賤はその傍らにあって二人の肘をちょいちょいとひくのであった。できあがった書(shū)類(lèi)は當(dāng)然字畫(huà)が曲ったり、ふるえたりしていた。しかしその書(shū)類(lèi)を受けとったフク子賤は、字がまずいといって二人を叱りつけたものであった。
そこで大いに憤慨した二人は、ただちにフク子賤に辭任を申しでた。するとフクは平然とこう答えた。
「貴公らの書(shū)はまったくなってないね、これじゃ使いものにはならないから、お望みならばさっそく帰りたまえ?!?BR> 亶父を去って帰りついた二人は、その足で魯公に謁見(jiàn)してこう報(bào)告した。
「フクさんのためには、働くどころか書(shū)きものすらできません?!?BR> 魯公がいぶかしんでその理由をきくと、
「フクさんは、いきなり私たちに書(shū)きものを命じましたが、はたから肘を押えたり、つついたりするので、字が思うように書(shū)けません。
それでいて、
『お前たちの書(shū)はへたくそで使いものにならない』
とさんざんお叱りになるのです。
同座していた役人たちも、みな笑っておりましたが、こんな馬鹿馬鹿しいことでは、私たちには働きようがありませんので帰って參りました?!?BR> というのであった。
これをきいた魯公は思わず嘆息していった。
「それは、私の不明をフク子賤が諫めようとしてのことだろう。
おそらく私は、フク子賤の政治のやりくちを亂して、思うさまの施政をやらせなかったことが、度々あったのに相違ない。
これを知らなければ大きな過(guò)ちをおかすところであった?!?BR> こうして、自分の信頼する側(cè)近を亶父につかわしてフク子賤にこう告げさせた。
「今からは、亶父の地は私の所有でなく、子の所有である。
亶父でなすべきことは、子の思う通りに行って下さい。
五年をへてからその報(bào)告をうけましょう?!?BR> フク子賤はつつしんでこれを承諾し、自分の思うままの施政にはげむことができた。
その後三年をへて、巫馬旗というものが、ボロボロの百姓姿に身をやつして亶父に赴いてその徳化のさまを見(jiàn)たが、夜、漁をするものがあって、せっかく網(wǎng)にかかった魚(yú)をまた河に放しているところに出會(huì)った。
不思議に思った巫は、その漁師にたずねた。
「漁をやっているのに、せっかくの獲物をなんで放しなさるのかね?」
「フク子賤さまが、小さいうちに魚(yú)をとってしまうのは、みんなのためにならんとおっしゃるだでな。
小さい魚(yú)がかかれば放してやるまでだよ?!?BR> という返事であった。
巫は大いにその治政に感嘆させられたということである。
これは、「孔子家語(yǔ)」と「呂氏春秋」に見(jiàn)える話であるが、ここでは「呂氏春秋」の「審応篇」によった。
(?孔子家語(yǔ)?では亶父は単父となっている)
掣肘とは、この話にみられる通り、人の肘を制約してその動(dòng)きを束縛すること、他人の自由を制すること、他人の仕事に邪魔をするという意味をもっている。