獨眼竜

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唐の懿宗の末年、山東?河南の地方は大水害に見舞われたが、翌、僖宗の乾符元年には、同じこの地方が、前年とはうって変わって大旱害に襲われる不幸があった。しかるに州県の稅の取り立てはきびしく、農(nóng)民たちはやむなくその妻を売り、子を売って、僅かに苛稅に堪えていた。
    だがしかしこれとても限界があった。
    山東の一角に燃え上がった農(nóng)民起義の火は、ついに曹州の出身、一代の風(fēng)雲(yún)児黃巣を蹶起させた。黃巣はそれにより早くすでに亂を起こしていた。同じく山東の王仙芝と手を握り、各地を転掠するごとに來り投ずる者たちを呑み、急速にその兵力を増強していった。やがて兵數(shù)十萬を稱するに至った巣は、広明元年十一月、洛陽を抜いて、怒濤の進撃を続け、ついに唐の都長安を陥れ、衆(zhòng)民の歓呼のうちに長安に入城し、自ら斉帝と號し、大斉國を樹てた。
    しかし一方、興元(陝西省)から成都(四川省)へと亂を避けていた僖宗の側(cè)にも著々と反撃の態(tài)勢は進んでいた。すなわち唐軍の猛將李克用の登場である??擞盲贤回胜紊惩硬砍錾恧?、胡地にひそんでいたが、黃巣討伐に起用され、四萬の兵を率いて河中(山西省)に進んだ。この克用は一方の眼が眇であったため「獨眼竜」といわれた。
    「李克用少なくして驍勇、軍中號して李ア児という。其の一目眇なり。
    其の貴となるに及ぶやまた獨眼竜と號す」
    また
    「僖宗の時黃巣叛を造す。李克用之を破る。時人其の一目眇にして勇有るをもって《獨眼竜》と號す」
    とあるのをみても、相當(dāng)の畏怖と尊敬の念をもってこう呼んでいたわけである。
    さてこの獨眼竜?李克用の軍はすべて全身に黒衣を纏っていたので、巣軍はそのすさまじい進撃に「鴉軍來る!」といって恐れおののいたという。しかし衰えたりとはいえ、未だに猛威を振るう巣軍は、山東?河內(nèi)方面の唐軍を席捲しているので、克用は五萬の兵を発して自ら唐軍の統(tǒng)帥として山東に入り、黃河を越える巣軍に一大鉄槌を加え、ついに瑕丘(山東省滋陽県)で決定的に巣軍を潰走させた。ここにさしもの起義軍も伐ち果され、黃巣もまた敗死してしまった。
    克用は、その功により隴西(甘粛)郡王に封ぜられたが、巣軍の起義によりまったくその威令を失った唐朝である、克用と仇怨啻ならぬ朱全忠(名は溫。はじめ巣軍に投じ、勢い傾くや朝に帰順す)との両虎は、朝政の実権をめぐって激しく対立したが、やがて朝政は全忠の専らにするところとなり、全忠が哀帝の位を奪って自ら帝位につき、國號を梁と號するのだが、獨眼竜?克用は失意のうちに世を去った。
    「獨眼竜」は隻眼で勇ある人、転じて隻眼高徳の人をもこう稱するが、わが國では伊達(dá)政宗の獨眼竜が有名である。
    (なお全忠の樹てた後梁は、克用の子存勗が倒し、後唐を樹てた。)