鯰魚(yú)與峰會(huì)
異國(guó)船が出沒(méi)し、大地震や大火が続いた幕末の江戸。世情騒然とする中、盛んに「鯰絵(なまずえ)」が描かれた。地を揺らす大鯰を民が懲らしめる定番のほか、大暴れを反省した鯰が復(fù)興を手伝うのもある。
幕府末期的江戶,外國(guó)船只入侵,大地震、大火(等災(zāi)禍)接連不斷。世態(tài)嘩然動(dòng)蕩,(由此)《鲇魚(yú)繪》開(kāi)始盛行起來(lái)。除了最常見(jiàn)的老百姓懲治動(dòng)搖大地的鲇魚(yú)(的作品)之外,也有反省自身暴行的鲇魚(yú)幫助(人們)重建的作品。
好き放題の果てに、毒を吐きながら衰えていく大鯰.今の米國(guó)にそんな絵を重ねてみる。こりゃたまらんと、小魚(yú)中魚(yú)が20匹ほど泳ぎ寄り、池を救う策を思案した。ワシントンの金融サミットである。
大鲇魚(yú)在肆意妄為之后的下場(chǎng)就是吐著毒水衰弱下去——讓我們對(duì)比著來(lái)看看現(xiàn)如今的美國(guó)??闪瞬坏昧?,小魚(yú)、不大不小魚(yú)20來(lái)?xiàng)l趕緊游將過(guò)來(lái),商討如何挽救魚(yú)池。這就是華盛頓的金融峰會(huì)。
宣言は「いくつかの先進(jìn)國(guó)」が対応を誤ったと認(rèn)め、各國(guó)の連攜を強(qiáng)めて危機(jī)に臨むという?!个T語(yǔ)」に訳せば〈ひとつながりの水で生きていくなら知らん顔はできまい。小には小の、中には中の役目があるぞ〉だろうか。
據(jù)說(shuō)峰會(huì)宣言承認(rèn)了“某些發(fā)達(dá)國(guó)家”(在處理金融危機(jī)的)措施上有誤,呼吁各國(guó)加強(qiáng)合作面對(duì)危機(jī)。翻譯成鲇魚(yú)的語(yǔ)言大概就是“大家都在同一片水里生活,(你們總)不能裝作不知道(我有困難)吧。小魚(yú)有小魚(yú)的責(zé)任,不大不小魚(yú)有不大不小魚(yú)的責(zé)任哦”吧。
米國(guó)の懐は、戦費(fèi)その他でからっぽ。外の資金を誘い続けるには、自由放任の市場(chǎng)とドルの威信は譲れない。こうした鯰の都合が「池の平穏」に先んじるあたりに病巣がのぞく。火元の、しかも去る人が発した宣言に効ありや。
美國(guó)人的錢(qián)包,因?yàn)閼?zhàn)爭(zhēng)費(fèi)用等癟得空空如也。(美國(guó))為了繼續(xù)吸引外資,因此不能改變(美國(guó)那種)自由放任的貿(mào)易,丟掉美元的威信。這種鲇魚(yú)的便利要優(yōu)先于“魚(yú)池的平穩(wěn)”——從這點(diǎn)就可以看出(金融危機(jī)的)癥結(jié)所在。引發(fā)火災(zāi)處的又是將要離去的人(布什)的宣言能有效?
鯰絵の鯰はやがて、天災(zāi)で世の中が一変するかもという庶民の期待を受けて「世直しの神」に姿を変えていく(原信田(はらしだ)実「謎解き広重「江戸百」」集英社新書(shū))。時(shí)に度し難い米國(guó)鯰も、いざという時(shí)の変わり身の早さは侮れない。現(xiàn)に「次」が変革を訴え、民は「やればできる」と熱く唱和している。
由于老百姓期待著世道也許會(huì)因?yàn)樘鞛?zāi)不斷而徹底改變,所以不久后“鲇魚(yú)繪”里的鲇魚(yú)就趁此機(jī)會(huì)搖身一變,成為了“救世主”。話說(shuō)美國(guó)這條不可救藥的鲇魚(yú),它在危機(jī)時(shí)刻變身速度之快可也是不能小瞧的啊。這不,實(shí)際上“下一位(總統(tǒng))”已經(jīng)在開(kāi)始呼吁著改革,百姓們則高呼著“努力就能成功”熱熱鬧鬧地舉行著大合唱呢嘛。
翻って、わが政治のぬるさよ。バイト2日分の配り金で票を釣ろうにも、選挙を怖がり、とんちんかんな話になった。かくして変革は遠(yuǎn)のく。池の主について行くなら行くで、主以上の身軽さが要るのに、その泳力、漂う浮草のごとしだ。
反觀我們的政治,是多么的愚蠢哦。雖然派發(fā)了打零工兩天就能掙來(lái)的工錢(qián)來(lái)拉選票,卻又害怕舉行大選,真是荒唐啊。如斯,改革離我們?cè)絹?lái)越遠(yuǎn)。想要緊跟在魚(yú)池主人的*后面也可以,但那樣可是需要比主人還身輕如燕的喲,而(日本政府的)游泳的水平,也就跟那飄在水面的浮草無(wú)二。
鯰絵(なまずえ)は江戸時(shí)代の日本で出版された、ナマズを題材に描かれた錦絵(多色刷りの浮世絵)の総稱である。大鯰が地下で活動(dòng)することによって地震が発生するという民間信仰に基づいており、1855年(安政2年)10月2日に起きた安政の大地震の後、江戸を中心に大量に出版された。本稿では特に斷りのない限り、安政の大地震を単に「地震」と表記する。
異國(guó)船が出沒(méi)し、大地震や大火が続いた幕末の江戸。世情騒然とする中、盛んに「鯰絵(なまずえ)」が描かれた。地を揺らす大鯰を民が懲らしめる定番のほか、大暴れを反省した鯰が復(fù)興を手伝うのもある。
幕府末期的江戶,外國(guó)船只入侵,大地震、大火(等災(zāi)禍)接連不斷。世態(tài)嘩然動(dòng)蕩,(由此)《鲇魚(yú)繪》開(kāi)始盛行起來(lái)。除了最常見(jiàn)的老百姓懲治動(dòng)搖大地的鲇魚(yú)(的作品)之外,也有反省自身暴行的鲇魚(yú)幫助(人們)重建的作品。
好き放題の果てに、毒を吐きながら衰えていく大鯰.今の米國(guó)にそんな絵を重ねてみる。こりゃたまらんと、小魚(yú)中魚(yú)が20匹ほど泳ぎ寄り、池を救う策を思案した。ワシントンの金融サミットである。
大鲇魚(yú)在肆意妄為之后的下場(chǎng)就是吐著毒水衰弱下去——讓我們對(duì)比著來(lái)看看現(xiàn)如今的美國(guó)??闪瞬坏昧?,小魚(yú)、不大不小魚(yú)20來(lái)?xiàng)l趕緊游將過(guò)來(lái),商討如何挽救魚(yú)池。這就是華盛頓的金融峰會(huì)。
宣言は「いくつかの先進(jìn)國(guó)」が対応を誤ったと認(rèn)め、各國(guó)の連攜を強(qiáng)めて危機(jī)に臨むという?!个T語(yǔ)」に訳せば〈ひとつながりの水で生きていくなら知らん顔はできまい。小には小の、中には中の役目があるぞ〉だろうか。
據(jù)說(shuō)峰會(huì)宣言承認(rèn)了“某些發(fā)達(dá)國(guó)家”(在處理金融危機(jī)的)措施上有誤,呼吁各國(guó)加強(qiáng)合作面對(duì)危機(jī)。翻譯成鲇魚(yú)的語(yǔ)言大概就是“大家都在同一片水里生活,(你們總)不能裝作不知道(我有困難)吧。小魚(yú)有小魚(yú)的責(zé)任,不大不小魚(yú)有不大不小魚(yú)的責(zé)任哦”吧。
米國(guó)の懐は、戦費(fèi)その他でからっぽ。外の資金を誘い続けるには、自由放任の市場(chǎng)とドルの威信は譲れない。こうした鯰の都合が「池の平穏」に先んじるあたりに病巣がのぞく。火元の、しかも去る人が発した宣言に効ありや。
美國(guó)人的錢(qián)包,因?yàn)閼?zhàn)爭(zhēng)費(fèi)用等癟得空空如也。(美國(guó))為了繼續(xù)吸引外資,因此不能改變(美國(guó)那種)自由放任的貿(mào)易,丟掉美元的威信。這種鲇魚(yú)的便利要優(yōu)先于“魚(yú)池的平穩(wěn)”——從這點(diǎn)就可以看出(金融危機(jī)的)癥結(jié)所在。引發(fā)火災(zāi)處的又是將要離去的人(布什)的宣言能有效?
鯰絵の鯰はやがて、天災(zāi)で世の中が一変するかもという庶民の期待を受けて「世直しの神」に姿を変えていく(原信田(はらしだ)実「謎解き広重「江戸百」」集英社新書(shū))。時(shí)に度し難い米國(guó)鯰も、いざという時(shí)の変わり身の早さは侮れない。現(xiàn)に「次」が変革を訴え、民は「やればできる」と熱く唱和している。
由于老百姓期待著世道也許會(huì)因?yàn)樘鞛?zāi)不斷而徹底改變,所以不久后“鲇魚(yú)繪”里的鲇魚(yú)就趁此機(jī)會(huì)搖身一變,成為了“救世主”。話說(shuō)美國(guó)這條不可救藥的鲇魚(yú),它在危機(jī)時(shí)刻變身速度之快可也是不能小瞧的啊。這不,實(shí)際上“下一位(總統(tǒng))”已經(jīng)在開(kāi)始呼吁著改革,百姓們則高呼著“努力就能成功”熱熱鬧鬧地舉行著大合唱呢嘛。
翻って、わが政治のぬるさよ。バイト2日分の配り金で票を釣ろうにも、選挙を怖がり、とんちんかんな話になった。かくして変革は遠(yuǎn)のく。池の主について行くなら行くで、主以上の身軽さが要るのに、その泳力、漂う浮草のごとしだ。
反觀我們的政治,是多么的愚蠢哦。雖然派發(fā)了打零工兩天就能掙來(lái)的工錢(qián)來(lái)拉選票,卻又害怕舉行大選,真是荒唐啊。如斯,改革離我們?cè)絹?lái)越遠(yuǎn)。想要緊跟在魚(yú)池主人的*后面也可以,但那樣可是需要比主人還身輕如燕的喲,而(日本政府的)游泳的水平,也就跟那飄在水面的浮草無(wú)二。
鯰絵(なまずえ)は江戸時(shí)代の日本で出版された、ナマズを題材に描かれた錦絵(多色刷りの浮世絵)の総稱である。大鯰が地下で活動(dòng)することによって地震が発生するという民間信仰に基づいており、1855年(安政2年)10月2日に起きた安政の大地震の後、江戸を中心に大量に出版された。本稿では特に斷りのない限り、安政の大地震を単に「地震」と表記する。