日語(yǔ)中級(jí):第36課 ミニヤコンカの奇跡

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本課課文
    中國(guó)、四川省にあるミニヤコンカは標(biāo)高7556メートル。青空に浮かぶその雄姿が、風(fēng)邪にたてがみをなびかせる白馬にたとえられるほど、美しい山である。しかし、いつも美しい山だとは限らない。一旦天候が崩れると、それはたちまち荒々しい魔の山と化す。これまで、実に多くの登山家の命を奪ってきた恐るべき山である。
    1982年の春、7名の日本人登山隊(duì)がこのミニヤコンカに挑戦した。登山隊(duì)は、十分に準(zhǔn)備を整えた上で、気圧の低い高山に體を慣らしながら、ミニヤコンカに挑んだ。そして、二人の隊(duì)員が、いよいよ頂上を目ざすことになった。
    二人は順調(diào)に頂上へ近づいていた。しかし、頂上まで後50メートルを殘すばかりとなったところで、突然天候が崩れた。二人の登頂を阻むかのように、風(fēng)が雪を舞い散らし、ガスが視界を閉ざした。
    二人は登頂を斷念し、天候の靜まるのを待って、下山することになった。しかし、天候が一向に回復(fù)する気配を見(jiàn)せなかった。雪洞で野営するうちに、食糧も盡き、疲労が次第に二人の體を蝕んでいた。その上、トランシーバーも凍りついて、外の隊(duì)員との連絡(luò)も絶たれてしまった。
    二人は互いに勵(lì)ましあいながら、下山の機(jī)會(huì)をうかがった。數(shù)日が経過(guò)して、わずかな晴れ間がのぞいた。この時(shí)だとばかりに、二人は気力を振りしぽって山を下り始めた。
    しかし、體力を消耗しつくした二人の足は、思うように進(jìn)まなかった。わずか1時(shí)間で登ってきたところが、下りるのにまる1日もかかった。そのうちに、胃が食べ物を受け付けなくなり、手足の先が凍傷のために感覚が失って動(dòng)かなかった。とうとう二人は力盡きて倒れ、二人のうち一人は永久に帰らない人となった。
    だが、一人は、重傷を負(fù)いながらも、かろうじて一命を取り留めた。奇跡的な生還を果たしたその人の名は、松田広也さんと言う。
    松田さんが助かったのは、薬草をとりに來(lái)た4人のィ族の農(nóng)民のお陰だった。海抜2940メートルまで下りて來(lái)た松田さんは、小川のほとりで倒れ、そのまま體を動(dòng)かすこともできなかった。その時(shí)に、松田さんの耳に人の話し聲を聞こえ、目の前に何人かの人の顔が現(xiàn)れた。のちに、松田さんの母親が「生き神様」と呼ぶ、毛光栄さん、げい明全さん、毛紹均さん、げい紅軍さんの顔であった。
    4人は、松田さんを近くの山小屋まで運(yùn)び、火を起こして塩水を飲ませ、介抱した。そして、げつ明全さんと毛光栄さんの二人が、すぐに山を下りて公社に報(bào)告した。この急報(bào)を受けて、100人以上の救助隊(duì)が出動(dòng)した。そして、100キロの山道を一晝夜休まず松田さんを移送し、磨西の病院に擔(dān)ぎ込んだ。
    62キロあった松田さんの體重は、病院に擔(dān)ぎ込まれたとき、32キロしかなかった。さらに、診斷の結(jié)果、両手両足の凍傷のほか、全部で16もの病名が付けられた。まさに瀕死の狀態(tài)であったのだ。早速手術(shù)が行われたが、この敏速な処置が、死の淵をさまよっていた松田さんをよみがえらせたのである。
    松田さんが助かったのは、奇跡というほかはなかった。もし、4人のィ族の農(nóng)民に巡り合わなかったとしたら、また,多くの人たちの敏速で獻(xiàn)身的な行動(dòng)がなかったとしたら、松田さんは間違いなく命を落としていただろう。
    その後、松田さんは、成都の四川醫(yī)學(xué)院附屬病院に運(yùn)ばれ、無(wú)償の手厚い治療と看護(hù)を受けて、日本に帰國(guó)できるまでに回復(fù)した。
    今、松田さんは社會(huì)復(fù)帰を果たし、元?dú)荬四氦椁筏皮い?。両手の指と両足を失った松田さんだが、義足がその體をしっかりと支えている。そして、同時(shí)に、中國(guó)のたくさんの人たちの愛(ài)情が、その心を強(qiáng)く支えているのである。