2016年職稱日語A及閱讀理解輔導(一)

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第一篇
    人間の能力というものは、はじめからすべての部分が発達してくるわけではない。人間の欲が深いから、すべての能力が、そんな発達のしかたはしないものだ。(A)、運動能力から発達するもの、數(shù)の計算能力から発達するもの、音楽や美術(shù)の面から発達するものなど、さまざまである。そして、運動能力から発達したものが、文章が下手だというわけでもないし、數(shù)の計算の速いものが、音楽ができないというわけでもない。人間の能力の発達というものは、もともと部分の発達であり、不均衡な発達をする。
    また、人間の能力の発達には、早い人と遅い人がある。早い人を早熟といい、遅い人を晩熟という。多くの人の中には、小學校のころは勉強がよくできたけれど、中學校や高等學校へすすむにしたがって、できなくなった人がいるだろう。また、逆に、小學校のころは、たいしてできなかったが、中學校や高等學校へすすむにしたがって、できるようになった人もいるだろう。人は、すべて早熟であることは期待をつなぐけれども、早熟が必ずしもよいとは言えない(B)。「大器晩成」ということばがあるように、晩熟もまたけっこうである。
    昔から、「十で神童、十五で天才、二十すぎたらただの人」と言われているが、幼いうちから能力が、すべて出てくるわけではない。その人の生まれた生活環(huán)境や文化的條件がまずしければ、それ「C」が、遅く出くるのは當然である。
    そのことを晩熟であると考えればよい「D」けれども、自分に能力がない、などと考えたら、大変な間違いが起こってくる。いつかは芽が出、花が咲き、実が実るということに期待を持ち続けるが、人間らしい考え方であり、その気になって努力すれば、人間の能力というものは、いつでも発達するのである。
    1.「A」に入れるのにもっとも適當なものを次の中から選びなさい。
    A)しかし   B)ところで   C)たとえば   D)そこで
    2.下線「B」は「早熟が必ずしもよいとはいえない」と言っているが、その例として正しいものは次のどれか。
    A)運動能力から発達した人は文章が下手だ。
    B)小學校のころは勉強がよくできたけど、中學校へ進むにしたがって、できなくなったという人がいる。
    C)小學校のころはよくできなかったが、中學校へ進むにしたがって、できるようになったという人がいる。
    D)すぐれた才能を持った人はみんなおくれて完成する。
    3.下線「C」の「それ」は何を指しているか。
    A)文化的條件   B)能力   C)神童    D)天才
    4.下線「D」の「晩熟であると考えればよい」ということの理由として、もっとも適當なものを次の中から選びなさい。
    A)晩熟であるというのは、生活環(huán)境には関係ないことだから。
    B) 晩熟であるというのは、いつかは能力が発達するということだから。
    C) 晩熟であるというのは、子供の発達から見て當然のことだから。
    D) 晩熟であるというのは、ことわざにも言われていることだから。
    5.この文章を通して、筆者が一番言いたいのは何であるか。
    A)人間の能力の発達は人誰でも同じような過程を経たものだ。
    B)早熟はいいものだが、「大器晩成」のほうが一番いいものである.
    C)早熟か晩熟かは生活環(huán)境とだけでなく、家庭教育とも密接な関係がある。
    D)人間の能力は期待を持って努力し続ければ、いつでも発達するものである。
    第二篇
    私たちは人との觸れ合いの中で生きています。父母兄弟姉妹、そして先輩や友人たち、多くの人たちの中で教えられ(A)、導かれ、溫められていきているわけですが、その反面、人との交際はつかれることも多いと言えるでしょう。お互いに、それぞれの性格があり、思い方や考え方のちがいがあり、また自分の立場を守るための競爭もありますから、社會に出てゆくにしたがって、傷つくことにも出會い、さびしい思いをすることにも、堪えていかなければなりなせん。
    そうしたさびしさの中で、自分を支えるものは、結(jié)局自分の力であり、自分を元気に過ごさせるものは、自分の心の持ち方以外にないことに気づきます。
    人以外のものとも友達にもなれる心を持つことは、さびしさや孤獨を慰める大きな力になることはいうまでもありません。また、人以外のいろいろなものが、自分にとってはどんな存在であるのか、いろいろに思ってみて、初めてそのものの価値に気づくということもあるでしょう。
    詩人リルヶは「ものから學べ」といっていますが、私たちの回りになる一つ一つのものにも、それに問いかけ話しかけてみることによって、さまざまなことを教わるでしょう。
    詩の心とは、そうした問いかけであり、相手の立場思うやさしさであり、思いやりに心、友情ということになります。そしてこれは、相手を大切に思う謙虛な心です。
    詩はさびしい時にできると、よく言われますが、さびしいと言う感情が人の心を謙虛にするからでしょう。
    その時(B)はじめて、風のことばが聞こえたり、冬の樹が寒さに堪える姿を見せて、勵ましてくれるでしょう。
    こうしたことを思う、心を謙虛にしないかぎり、詩は生まれない、ということになります。
    1.下線(A)の「られ」と同じ使い方の文を次から選びなさい。
    A)あしたは六時の出発ですが、起きられますか。
    B)納豆は西日本では、あまり食べられていないようだ。
    C)先生は早くこられたそうだ。
    D)古い寫真を整理しているうちに、昔のことが思い出された。
    2.下線(B)「その時」とはどんな時か、適當なものを一つ選びなさい。
    A)風の言葉が聞こえたり、冬の樹が寒さに堪える姿を見たとき。
    B)人の心が謙虛になった時。
    C)さびしいと感じた時。
    D)人以外のものと友達になった時。
    3.さびしさの中で自分を支えるものは。
    A)詩である。
    B)自分の力である。
    C)友情である。
    D)家族の愛情である。
    4.「詩」について正しくない敘述は次のどれか。
    A)詩の心は相手を大切に思う謙虛な心である。
    B)詩はさびしいときできるものである。
    C)詩は人と人とのふれあいから生まれたものである。
    D)詩を作るにはまずまわりのものに問いかけ、そして友達にならなければならないのである。
    5.文章の內(nèi)容に合わないものは次のどれか。
    A)競爭の激しい社會の中で人間はたくましく生きていかなければならない。
    B)さびしさは人間の心を豊かに転する。
    C)さびしさの中で、自分を支えるものは自分の力しかない。
    D)人間はまわりのものに學ぶべきである。