2016年日語(yǔ)等級(jí)文學(xué)作品閱讀賞析:《身についた可能の発見》

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  •     今年はどんな一年として私たちに経験されてゆくだろう。
        世界の動(dòng)き、日本の動(dòng)きは微妙複雑な程度を増しこそすれ、決して単調(diào)平坦な明け暮れがあろうとは思われない。婦人の生活も、世界的な波動(dòng)の中で更にそれぞれの國(guó)の特別な事情に左右されながら、多くの経験を重ねて行くことだろう。女のおかれている條件もひととおりのものではないのである。
        この頃、歴史について読書人の関心が目ざまされて來(lái)ている。漠然と現(xiàn)代の社會(huì)事情が維新時(shí)分の世相のありようと引きくらべられたりもしている。
        けれども、果して歴史はくりかえすものであろうか。
        歴史の上に、一つの國(guó)が全く同じ條件で同じ現(xiàn)象をくりかえすというようなことが現(xiàn)実にあるものだろうか。
        私たちの祖母の代が女として過(guò)した一生の絵図を、きょうの若い女性の日々にくりかえされていると私たちは思っているだろうか。私たちの一生は祖母の代とは非常にちがう內(nèi)容が過(guò)されるであろうし、或は母とも姉たちとも生活感情で深く違ったところをもって暮されて行くのが実際だろうと思う。
        そして、種々様々な時(shí)代としての相異があるにしろ、やはり私たちの一生は自分にとって度しかないものだということに、烈しい愛(ài)著を感じ、かくされている可能を信じようとする心は変りあるまい。
        世界の歴史が激動(dòng)し、國(guó)々の歴史が波瀾を重ねる間にも、私たちが歴史のために役立とうとすれば、窮極は自分という一個(gè)の女性を、大の可能でそれぞれの道と部面とにおいて人及び女として成長(zhǎng)させ、能力を発揮して行くことにほかならないということは意味ふかいことだと思う。
        去年は世の中にいろいろと大きい動(dòng)きがあって、若い生活力に溢れた女性たちは、何かどこからか新しい潮がさし入って來(lái)たように感じ、眼を瞠みはって動(dòng)きにそなえたけれど、その動(dòng)きが具體的にどうあっていいものなのかは、はっきり見定められなかったような狀況だったと思う。
        自分として改まって、さて何をどうしてよいか、ということで卻ってわからなくなった気持もあって、それは決して若い女性たちだけの問(wèn)題に止らなかった。女性の先輩たちの動(dòng)きにその混迷が見られたし、文學(xué)、美術(shù)、科學(xué)の面でもそれぞれの形で同様のことがあった。
        今年は、世相としては一層いりくんだ現(xiàn)象が見られるようになるであろうが、それが予想されるからこそ猶私たちは、自分の生活を內(nèi)と外とから見て、自分に本當(dāng)に身についた可能を発見して成長(zhǎng)してゆくように骨折らなければならないのだと思われる。集団的な生活への関心もおこっているけれども、その一人一人がちゃんと自分と団體のすることとを見きわめての動(dòng)きでなければ、結(jié)局は一つの流行に流されたということにもなる。流行に押しながされる女の姿は、パーマネントばかりにはなく、制服好きとなっても現(xiàn)れるのである。
        當(dāng)途のない気持をまぎらしに人のよっているところへひきよせられてゆく。その心理が映畫館や喫茶店から○○會(huì)へ場(chǎng)所を変えたというだけであったら、格別の意味はないというしかないと思う。自分の判斷やもののみかたの定らないひとほど他人の意見に追隨するもので、女が英雄崇拝であると云われる原因も、そういうところにある。ひところはそれを理由として女性に冷靜な判斷力が乏しいから政治に関係する選挙権などは與えられないと云われたことがあった。
        私たちは総力と云われているものの一部として自分たちを考えたとき、そういう云いかたのなかへむこうから引くるめて表現(xiàn)されるばかりでなく、真に生活的な力として自分をも成長(zhǎng)させてゆく社會(huì)的な力として、女である自分たちが如何なる可能をもっているかということを真面目に考えてみることも無(wú)駄ではないと思う。具體的な何かの技術(shù)、何かの専門、また家庭の処理の方法にしてもそこに何かの工夫をもち計(jì)畫をもっているということの確信、それがほしいことだと思う。
        歴史の激しくうつりかわる時(shí)期には、標(biāo)語(yǔ)めいたものはどんどんうつり変り、表面からそれを追えばそこには矛盾も撞著も生じる。時(shí)代の風(fēng)波はいかようであろうとも、私たちが女として人間として、よく生きぬかなければならない自身への責(zé)任はどこへ托しようもない自身の責(zé)任なのである。歴史の幅は非常にひろいものである。私たちはそのことをよく知らなければならない。立役者だけで演じられる芝居というものはない。そのことも私たちはよく知っていなければならないことであると思う。
        〔一九四一年一月〕